「日本人論」というのは、日本人の特徴を分析して、明らかにする意見文を指す。(学問的な研究としては少ないが、その理由についてこの投稿で触れるつもりだ。)先日、『神社新報』でこの日本人論の本の評論を読んだので、考えさせられた。
欧米では、「日本人論」はレッテルのように使われている言葉である。特に、日本学の学界では、「日本人論」は日本の問題になる思想の結晶として取り上げられることは多い。その批判は主に下記の通りになる。
日本人論は、日本人を特別としている。つまり、日本人は、他の人間と違って、特別な性質などを持って、他の国の考え方からわかることはできない存在として扱う。しかし、日本人は他の人間と同じであるので、そして中国や朝鮮半島から影響を大きく受けたので、日本人論は非学問的なことである。
こう言われたら、日本の学者も日本人論を避けるようになったのではないかと思う。日本人の学者は、欧米の意見に大変敏感であるからだ。
しかし、日本人論は本当に問題なのでしょうか。まずもって、証拠はない虚偽的な議論はもちろん問題であるが、それは何の課題でも同じである。だから、日本人は本当に他の人間と全く同じであれば、日本人論は良い学問にはなれない。しかし、結論ありきに批判するべきではない。証拠や根拠を検討してから判断するべきである。
そして、日本人の優越性を強調する議論は確かに問題になりかねない。人種差別の温床になったり、極端の話で帝国主義を生み出すこともある。欧米の白人はこの危険に敏感である。なぜなら、白人は自分の優越性を信じ込み、世界中を支配下に置いて、多くの人に甚大な苦しみをもたらしたからだ。それに、ある民族には優越性があることを証明するのは極めて難しいし、自分の民族を有利にする傾向は強いので、このような研究を疑うべきであるのは否めない。
ただし、日本人論は必ずしもそうではない。単純に日本人の性格と他の国の性格の違いを指摘することもある。確かに日本人は均一であるわけではない。しかし、傾向や平均的なことは言える。その上、今の日本人の性格は、過去の日本人と未来の日本人と違う可能性にも配慮しなければならない。『源氏物語』などを読めば、平安時代の日本人の感覚は、現在の日本人とも違ったが、戦前の日本人と完全に乖離していたような印象は強い。だから、日本人論を考えれば、気を付けなければならない。それでも、国柄といえば、平均的に違うことはあるのではないかと言える。例えば、アメリカ人の愛国心は強くて、当たり前かのようだが、日本人もイギリス人も違う。そして、日本人の謝まる文化は、アメリカと大きく違う印象を与える。中国や韓国との違いもあるはずだが、私は中国などには詳しくないので、指摘しない。そのような違いを検討して、原因や経緯を分析するのは役に立つのではないかと思える。
さて、なぜ欧米の反発はそれほど強いのか。思い浮かぶ可能性は、白人の標準化を揺るがすことである。日本人は欧米の白人と根本的に違う心理を持っていれば、白人の意見などを世界の標準として使えない。一方、違いを認めなければ、白人が思うことは、世界中の人が思うことになる。この「白人を標準とする」行動は、「白人特権」と言われてきたし、問題視されてきた。白人は、白人の考えは普遍的であると強調するのに対して、日本人は日本人の考えは特徴的であると主張する。
もしかして、日本人の方がより妥当であるのではないか。