社会の難易度

最近思ってきたが、現在社会は複雑すぎるのではないだろうか。

これは、「昔の村社会の生活の方が良かったな。稲作しながら季節の祭に参加する日本の風土に合う生活は憧れ」ということではない。インターネットなどは大好きだ。むしろ、実践的に現在社会は生きるために複雑すぎるのではないだろうか、という心配である。なぜそう思ってきたというと、私も全てのやるべきことを覚えて整理して、そして生活を送る中の同意書をわかり、規則の通り全て行うのは難しい。自慢したくないが、私の知的能力は平均を上回るので、私に難しければ、難しく感じる人は多かろう。そして、難しく感じない人の中に、状態を把握しないから難しく感じない人も少なくないだろう。

この問題は、制度の問題であると思うしかない。人間の能力には制限があるのは事実の一部だから、それを無視する制度は、重力を無視する制度と同じように非合理的である。しかし、この問題は、誰かが「人間の容量には制限はないので、このようにしよう」と思ったわけはない。原因は主に二つあるのではないかと思う。

一つは、ある分野で数年間専ら働けば、分かってくる。そして、その理解に至るためにどれほどの努力や勉強は必要だったか、忘れてしまう。私は、数年間神道のことを勉強してきたが、私の神道の知識は一般的な常識ではないことを忘れがちになっている。一般な日本人は、神社とお寺の区別にさえ苦労することを自分に思い出させなければならない場合はある。この結果、長く取り組んできた制度は、結局わかりやすいと思い込む傾向は強い。TRPGの作成で頻出する問題だ。新しいゲームを開発した人は「わかりやすい!使いやすい!」と訴えるが、見てみれば不明な点は多いのは通常である。つまり、制度を構成する人は、わかりにくいと思わないが、結局一般人にとってはわかりづらい。

もう一つは、制度の重複である。アメリカから顕著の例を聞いた。ある小学校の教諭が教育委員会(に相当する組織)に児童の試験の多さを訴えたら、「一人には一年に一回に過ぎない」との回答が来たそうだ。それに不服して、「これもあるし、これもあるし、結局毎月ほどである」と訴え返したが、委員会は「その他は、私たちの管轄ではない」と答えた。「それでも、児童は同一だ」と教諭が反発したが、変化はないようだ。つまり、一つずつ考えれば耐えられる制度であるとしても、たくさん重ねると力を超えることがある。

このような問題は、法律で解決するしかない。独立して行動する組織が合わせて問題を起こすので、国家以外問題の全体像を考える組織はない。(もちろん、組織ごとに思わずにこのような問題を起こしていないように気をつけるべきだが、それでも解決策にはならない。)暫くの間、この問題を論じたいと思う。

理想的な目標は、偏差値30の人がわかる、きちんと果たす制度である。結局それは無理であっても、少なくとも偏差値40以上の人が問題なくできるようにすべきである。それを保証する政策を考えたいと思う。


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