あなたは主人公

最近、アメリカとイギリスで映画の主人公、特にアクション映画の主人公を黒人か女性にすることが大きな話題になっている。『フォースの覚醒』はいい例になるだろう。中心的な人物は、黒人と女性である。これに反発する人は、一応「わああああ、スターウオーズの主人公はいつも白人の男性だ!私の子供の思い出は裏切られた!もう死ぬ!」のように喚く。(確かに、主人公は白人の男性だったにもかかわらず、エピソード1について同じように喚いたけれども。)それはただの大袈裟だと思うしかないだろう。歓迎する声の方が興味深い。「いよいよ、私が共感できる主人公だ!子供の頃からスターウオーズのキャラクターを想像の中でなりたかったが、とうとうできるようになった!」という。

一見で見れば、それは不思議だ。はるか昔の遠い銀河に住むフォースを操る人になるのは、想像で問題ではないのに、はるか昔の遠い銀河の男性になる、または白人になるのは、無理だそうだ。想像力は、なんでこの点で力を失うのかは、不可思議だと思われるだろう。

しかし、理由があると思う。人間には、要素は数多くある。身長も体重もあるし、髪の色もある。出身地や学校での座席のような歴史の要素もある。広い目で見れば、この要素はすべて人のアイデンティティに貢献するが、そのほとんどは中心的であると思われない。私は、学校で窓際に座ったとしても、決して違う人間にならなかっただろう。髪の色も同じだ。私は金髪だったら(幼児の頃、実は金髪だったし)、違う人間にならない。しかし、この要素の中で必要不可欠だと思われる要素もある。例えば、性別だ。性別は違ったら、別な人間になると思う人は少なくない。

このような必須な要素が違う主人公は、自分であるとは想像できない。別なキャラクターを想像しない限り、自分を話に入れることはできない。つまり、自分は女性であることを必須だと思う女性は多いようだ。同じように、自分は黒人であることを必須だと思う黒人も多いようだ。もちろん、皆が皆はそうであるとは限らない。私は、性別と肌色をそれほど重視しない。『フォースの覚醒』と言えば、私はレイになりたいのだ。フィンやポーは私に合わない。なぜかというと、私は頭で問題を解決するキャラクターにならないといけない気分を持つ。フィンの計画は「フォースを使おう!」程度だが、レイはファルコンの修理をしたり、自分の解放を図る計画も立てたりする。

このような違いがあれば、どうすれば良いのかは、後日に考えたいと思う。


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