多様な声の養成

では、独立した作者をどうやって養えば良いのだろうか。

まずは、養わなくても良い人も存在することを述べておこう。なんの背景であるとしても、そこから強い意志を持っている人が発生して、自分を自分の力で最前線まで押し進める。しかし、それほど能力がある人は少ない。環境は厳しい場合、多くの人は成功に辿れない。過去の成功を収めた人の大半は、恵まれた背景から生じた理由はこれだ。

確かに、恵まれた背景は広がりつつある。貧困の代名詞になってしまったアフリカは現在、経済的に進み、作者を続々と輩出している。それに「恵まれた環境」の基準は下がりつつある。250年前に、識字を条件とする活動は、富裕層に限られたが、現在なら識字自体は条件にならないと言えるほどだ。これも、今までの15年間のアフリカなどでの進歩の一つの側面である。この傾向を将来に延長したら、誰でも作者になれるかと思える。だから、単純に待つこともあり得るのだろう。

しかし、そのように問題を放置することは、無責任であると言われるし、遅いのだ。作品の多様性は、1日でも早く実現してほしいことである。社会の自然な発展を待つのは、問題の事柄にはふさわしくない。では、積極的な活動は何だろう。

一つは翻訳だろう。別な言語で別な国で作成された作品は、輸入先の国にとって新しい立場になるのはほぼ確実だろう。アメリカの文化は実はその一例であるが、もうアメリカの文化に慣れてきたので、新しい考え方を提供することは難しくなったかもしれない。韓国や中国の隣国の作品を日本語に訳して売れるのも良いし、南米や中東、インドやアフリカの文化もそうだ。音楽は一番やりやすいだろうが、文学や映画、コミックスなどの分野も視野に入れた方が良かろう。

そして、国内の多様性も活かすべきだ。独立して出版するための自信や経験を身に付けるために、他の人と協働して何かを作出した方が良いと思う。確かに自分の概念を思うままに表現できないが、必要な技術を学んだり、役に立つコネを結んだりすることはできる。既に良い作品を幾つか出した人が真新しいものを出そうとすれば、それを真剣に考える人は少なくない。一方、完全に無名な人であれば、答える時間さえ惜しむだろう。このような経験を得るのは重要である。

そのため、国内の出版界などでは、新しい声を掘り出すように努力するべきだろう。その第一歩は無制限な原稿募集であろう。誰でも提出できれば、壁を設けない。しかし、これで留まれば効果は薄いだろう。今まで居場所は少ない人を特別な対象として募集した方が良い。例えば、都会に住まない人とか、分野によって男性か女性とか、低所得者などを対象として募集すればよかろう。そして、大学を卒業していない人も対象となるだろう。(編集者として働けば、大卒の作者は非常に多いことを痛感した。ある意味で当然だろうが、これも制限だ。)日本語を母語としない人も。

このような人の原稿を見たら、もしかしてまだまだ出版できない原稿は多いだろう。確かに、私にはそのような経験があった。その場合、一緒に修正して、より良い作品にさせるべきだ。ただ修正して出すだけではなく、その修正の内容を説明しながら、作者と交渉する。時間がかかるし努力も必要だが、その結果は自信がある作者だ。これも体験した。

この方針を実現しても、すぐに状況が変わることは期待できないだろうが、長期的に改善を期待することはできるのではないかと私は思う。


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