元々本々

「元々本々」は、神道で度々出てくる表現である。確か、鎌倉時代の伊勢神道の神道五部書に初めて見られるが、その意味は元来の状態に立ち戻ることであるそうだ。戒律なしの倫理観では、この概念は極めて重要だと思う。

この場合、「元」というのは、本当に目指している状態を指している。例えば、円満な家庭とか泰平な社会とか実り多いの人生などは本当の目的である場合がある。自分の行動を評価するために、規則に取られずに元々の目標こそ基準として評価するべきである。そうすることは、日常の混乱の中では難しい。だから、元を見つめられる状態に戻す儀式などは必要である。

それは、お祓いである。先日書評した『「鎮守の森」が世界を救う』の本の中で、お祓いをこのように位置付けたことはあった。つまり、お祓いは日常の罪穢れを除いて、本来の状態に戻す儀式であると主張する。この立場から見れば、罪穢れをより詳しく描写できるだろう。まずは、西洋でも「罪」と言われる行動はもちろん入っている。嘘や窃盗の行動は、多くの場合自分の本来の目的のためにならないので、その行動を退けて、また頑張れる状態に戻すのは大事である。そして、「気枯れ」の「穢れ」の意味で指される毎日の疲れや落ち込み、憂えなども本来の目的への前進の妨げになる。力の問題だけではなく、もう些細の問題の塵の中でもう目的が見えなくなって、進みたくても道が分からないこともある。そして、もう一つがある。それは、目的に達成するために規則によって縛られ、目的から離れたことである。つまり、「罪穢れ」の中には、倫理の戒律に従ったことも入っている。戒律が本来の目的から遠ざからせる場合、その戒律自体が穢れとなって、お祓いで清める。

祓ってから、根本的な立場に立ち戻って、これからの適切な行動を考え直すことはできる。前進するために、戒律が必要となることは多い。後日に詳しく説明するが、生活の中で一々根本から考えて判断する余裕はないし、意志の問題もあるので、成功に至るために戒律は必要であるが、時々時間をとって、元に戻り、戒律を考え直さなければならない。

そして、この場合、正直で明るい浄心は必要不可欠である。自分を騙す状態であれば、効果的な戒律は定められないし、本当の目的と短期的な目的をちゃんと区別して判断することもできない。上述の繰り返しだが、日常生活の中でこのような態度を常に保つのは無理だろうが、たまに考えないと人生の計画や目的が乱れてしまう。ただし、これは説教を必要とする場ではない。次回、「言挙げせず」の関係について論じたいと思う。


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