「言挙げせず」と倫理

神道は、万葉集の時代から「言挙げせず」と言われてきた。それにもかかわらず、私の書斎には神道について100冊以上の本があるが、それでも適切な表現であると言えるだろう。なぜなら、神道の本髄を言葉で表せないと主張するからだ。祭祀に参列したり、参拝したりすることは重要であるし、根本的な神学もない。確かに、度々神学を考えようと称える人が現れるが、結局そうならないことは多いのだ。つまり、完全に言葉にしないわけではなくても、言葉を避ける傾向はあるのは否めない。言霊信仰もこれと関係する。言葉には特別な力があるからこそ気軽に使うわけにはいかない。

倫理の場合、これはどういう影響を与えるだろう。

一番重要な影響は、戒律を無理とすることだろう。戒律は、必然的に言葉にされた存在である。そうしないと、どうすれば良いかは分からないからだ。「殺すな」は言葉である。そして、戒律は自然に言葉の数を増やしてしまう。「殺すな」とは良いが、死刑はいかがだろうか。戦争の場合、どうすれば良いか。動物も範囲に入るか。害虫を殺してもよろしいだろうか。(ジャイん教では害虫でも殺すべからずと聞いたが。)それで、黴菌はどうだろう。人間の免疫力が黴菌を殺したら、それは罪に当たるだろう。哲学者は、このような問題を繰り広げて、言葉をたくさん費やすが、それでも戒律はまだちゃんと成立しない。死刑、戦争、中絶は現代でも大きな倫理論争を引き起こす課題であるが、その全ては「殺すな」と意味についての論争である。言葉の争いになる。

神道は、言葉を避けたら、このような戒律を掲げることはそもそもできないだろう。

もう一つの結果は、人の倫理的な選択を批判することも難しくなることだ。単純に言えば、批判するために言葉を使わなければならないが、それより深い理由もある。

はっきりした戒律はない限り、人の行動の良し悪しは外から定められない。戒律はないと、その時の状況で、その人の状況で、その人の目的に達成するために一番良い行動をとるべきだが、その全てを把握するのは本人にとっても難しいので、他人にとっては無理に近いのではないか。結果的には良くないと推測できる場合もあるが、目的を勘違いしたり内面的な条件を把握していないことは多いので、断言できない。つまり、戒律はなければ、批判する基準が欠けているので、批判はできない。ただ禊祓いの機会を提供して、元来の自分に戻る道を開くことしかできないだろう。

そうすれば、神道の倫理的な立場はどうなったら良いのだろうか。その問題は、次回考えたいと思う。

元々本々

「元々本々」は、神道で度々出てくる表現である。確か、鎌倉時代の伊勢神道の神道五部書に初めて見られるが、その意味は元来の状態に立ち戻ることであるそうだ。戒律なしの倫理観では、この概念は極めて重要だと思う。

この場合、「元」というのは、本当に目指している状態を指している。例えば、円満な家庭とか泰平な社会とか実り多いの人生などは本当の目的である場合がある。自分の行動を評価するために、規則に取られずに元々の目標こそ基準として評価するべきである。そうすることは、日常の混乱の中では難しい。だから、元を見つめられる状態に戻す儀式などは必要である。

それは、お祓いである。先日書評した『「鎮守の森」が世界を救う』の本の中で、お祓いをこのように位置付けたことはあった。つまり、お祓いは日常の罪穢れを除いて、本来の状態に戻す儀式であると主張する。この立場から見れば、罪穢れをより詳しく描写できるだろう。まずは、西洋でも「罪」と言われる行動はもちろん入っている。嘘や窃盗の行動は、多くの場合自分の本来の目的のためにならないので、その行動を退けて、また頑張れる状態に戻すのは大事である。そして、「気枯れ」の「穢れ」の意味で指される毎日の疲れや落ち込み、憂えなども本来の目的への前進の妨げになる。力の問題だけではなく、もう些細の問題の塵の中でもう目的が見えなくなって、進みたくても道が分からないこともある。そして、もう一つがある。それは、目的に達成するために規則によって縛られ、目的から離れたことである。つまり、「罪穢れ」の中には、倫理の戒律に従ったことも入っている。戒律が本来の目的から遠ざからせる場合、その戒律自体が穢れとなって、お祓いで清める。

祓ってから、根本的な立場に立ち戻って、これからの適切な行動を考え直すことはできる。前進するために、戒律が必要となることは多い。後日に詳しく説明するが、生活の中で一々根本から考えて判断する余裕はないし、意志の問題もあるので、成功に至るために戒律は必要であるが、時々時間をとって、元に戻り、戒律を考え直さなければならない。

そして、この場合、正直で明るい浄心は必要不可欠である。自分を騙す状態であれば、効果的な戒律は定められないし、本当の目的と短期的な目的をちゃんと区別して判断することもできない。上述の繰り返しだが、日常生活の中でこのような態度を常に保つのは無理だろうが、たまに考えないと人生の計画や目的が乱れてしまう。ただし、これは説教を必要とする場ではない。次回、「言挙げせず」の関係について論じたいと思う。

倫理弊害と神道

お気付きの方はいらっしゃるかもしれないが、先の二つの投稿を神道のカテゴリーに入れたが、神道に関する内容はないと思われる。確かにその通りだが、今回の投稿でその理由を明らかにしたいと思う。つまり、哲学的な考えは、まだ神道と直接的な関係はなかったが、結び付けることはできるのである。

ちょっと復習になるが、倫理の問題は人間の短期的で自己利益中心の決め方を正すことではない。むしろ、その決め方を正す方法である。倫理の戒律によって、人が自分の動機を正直に認めなければならなくなるし、戒律に従うために周りの人に大きな被害をもたらすし、倫理の内容は間違っていれば、さらに煩いになることだ。つまり、問題は戒律そのものだ。戒律の目的は妥当であるし、必要であるが、別な方法で目指した方が良いとの結論になる。

では、神道との結び付けはどうなるだろう。

まずは、神道には倫理的な戒律はない。大祓詞に列挙される「罪」は倫理違反に限らないし、倫理制度のすべてには到底至らないので、その目的ではないのは明らかだ。そして、儒家神道には例外があると思えるが、神社神道には現在でもはっきりした戒律はない。神道には倫理感はないと言われるかもしれないが、そのような現象がこの倫理への態度に相応しい。つまり、倫理は問題であるからこそ神道が明記されている倫理を持っていないと言える。

神道がよく強調するのは、真心である。正直な心、清浄な心は神道の倫理的な話の中心になる。この意味は曖昧であるが、やはり自分の動機や価値を正しく理解し、直視することはその一部である。そして、自分の価値観を歪めずに正しく真っ直ぐに進めるのもそのような心のことであると言える。だから、戒律で自分の心理を隠したり歪めたりすることは、神道の中心的な生き方についての主張に合致する。

さらに、神道は「言挙げせず」と唱えるが、それは戒律と倫理には全く合わない。倫理を明らかにするために、言葉を使って説明しなければならない。そうしないと、何が良いか、何がダメかは分からないからだ。一方、倫理を捨てて、別な方法で共同体などを築こうとしたら、言葉で説明することは難しくなるだろう。「この行動は良い、この行動はダメ」と言えなくなるので、言葉で言えることは少なくなる。一方、祖先を見て歩むことは、戒律や倫理ではない。

また、神道の神様は必ず良い影響をもたらすとは限らない。自然災害ももたらす。これは、倫理を重視する感覚から理解しがたいことだ。しかし、倫理はなく、共存共栄を主張すれば、自然に成立するのではないかと思える。

つまり、神道の倫理観として、戒律を捨てることは相応しいと言えると思うし、カンベル氏の論文で重要な示唆を受けたような気がする。そのため、この先の投稿で、このような倫理を論じたいと思う。