グラビアの基礎問題

閏年の閏日だから、神道と神産霊神社の流れの真最中に全く別な話題に入れる。

先日、グラビアの問題についての投稿を公表したが、その投稿で問題を捕まえることはできなかった。しかし、今何かを把握したので、書きたいと思う。

まず、おさらいする。グラビアで、(主に)女性が自分の体を不特定多数の(主に)男性の色欲の的として提供する。しかし、これで何が悪いかは、言い難かった。もちろん、モデルは搾取されたら、それは問題である。その上、現在なら、モデルは搾取される場合はむしろ多い方のではないかと思う。しかし、それはグラビア自体の問題ではない。それは現在の資本主義の蔓延する問題だし、グラビアに対する社会的な態度が拍車をかけるので、グラビアの業界では特に厳しいと推測できる。しかし、解消できる問題だ。グラビアのモデルや写真家は搾取されていなくても、何らかの問題が残ると感じる。一方、例えばスーパーの店員は、搾取されていなかったら、全く問題はない。やはり何か違う。

しかし、私の立場は、性的な行為は良いことである意見である。強いて言えば、グラビモデルになることは、行為の本質から考えれば、良いことなのではないかと思わざるを得ない。もちろん、性的な行為に対して批判的な立場をとる人なら、グラビアを批判するのは簡単である。私はそうではないので、難しくなる。

急に気づいたことは、視線には問題があったことだった。問題をずっとモデル側に探していたが、そうではない。問題は、視聴者に対することだ。(「読者」とはちょっと言えないね。)要するに、視聴者は搾取されているが、それはグラビアの本質に基づくことである。

説明する。グラビアを買う弾みになるのは、色欲である。これは間違いないだろう。しかし、グラビアは色欲を満足させない。一方、色欲は、人間にとって極めて強い本能的な意欲である。この意欲が行為を促せば、拒否できる人は実に少ない。最近の不倫騒ぎは多いような気がするが、それは明らかな証拠である。これほど強い本能をテコとして人に商品を買わせることは、よくないと思えないだろうか。

実は、賭博、煙草、お酒、麻薬も同じである。このような商売はいつも怪しく思われているが、その理由は人間の弱点を捕まえるからだと思う。煙草、お酒、そして麻薬は依存を利用するし、賭博は基礎心理を利用する。グラビアは、色欲を利用する。つまり、消費者を搾取する商法である。

これで、問題を感じることにやっと納得できる。このような商品であれば、色欲を利用せずに販売することはそもそもできないので、この問題は回避できない。そして、簡単に作成されたグラビアであれば、何か詐欺に近い行動に感じる。作者の努力が増すにつれて、問題意識が少なくなる。色欲だけではなく、美意識なども魅了しようとする作品は、それほど問題ではないだろう。その上、禁じるべきではない。人間の弱点を捕まえる商品であっても、そのような商品が欲しい人は少なくないし、自由を尊重すれば、買うことを許すべきだ。ただし、何かの制限を設けて、社会問題を最低限に抑えるべきなのではないか。煙草も賭博も同じだ。

他の人の意見は違うのではないかと思うが、これは私はグラビアに問題を感じる理由であると思うのである。

『古語拾遺』の中の渡来人

『古語拾遺』でもう一つ気になったことは渡来人の地位だった。私にはこのような内容が気になるのは言うまでもないだろう。

当時の渡来人のほとんどは、朝鮮半島から来た人だったようだ。三韓の内戦で逃げた人、つまり、難民も含まれていたようだが、日本で朝廷などで大活躍したようだ。その理由は、先端技術を持ってきたからであるのではないかと推測されているようだ。先端技術というのは、識字や機織などであるが、当時革新的だったという。

そして、大変保守的な斎部広成は、この渡来人に対して一切排外的な態度を取っていない。むしろ、役割を強調して、その役割も継続すべきであると強調する。特に、7世紀以降の歴史で、『日本書紀』から漏れた内容を拾ったが、その大半は渡来人の氏族の役割だった。大蔵を司ったとも書いてあるが、祭祀にも重要な役割は認められている。

この史実を見れば、現在の国家について何も言えない。1300年前の事実と今日の事実は全く別であるからだ。言えるのは、帰化した人が日本の政治に深く関わっても、前例があることだ。ま、何も言えないはちょっと過言だが、具体的な意味にはならない。

一方、神道を考えれば、興味深いことは言える。

まずは、神道は純粋な日本の固有な宗教ではないことはさらに明らかになる。神道の歴史を勉強すれば、道教や仏教、陰陽道などからの影響は強いことは認めざるを得ないが、広成は渡来人の祖先を神社で祀るべきであると主張しながら、朝廷が幣帛を奉るべきであるとも言える。その上、伏見稲荷大社は渡来人の秦氏が建立した神社であるので、稲荷信仰は渡来人から発生した神道の一流である。(これは『古語拾遺』で強調されたことではないけれども。)神道は、日本で輪郭を形成したが、海外からの要素を取り入れたことは多い。寛大な宗教であると言われるが、このような古典を読めば、それは浮き彫りとなる。宗教の多くが他の宗教や国から要素を取り入れるが、それを否定する場合は多い。「これはあの宗教からとったことではない。我々が発想した内容だぞ。」のような主張である。一方、神道は潔く認める。外来の神も祀れば良いという態度である。

そして、より個人的なことになるが、神道の歴史の中にも日本に渡来して帰化した外国人が自分の思想や祖先を奉じて神道の一つの信仰を始める前例はある。特に、神道がちゃんと成型された時代には、そのようなことは多かった。つまり、私が神道に私の独自の考え方を取り入れることは、神道の伝統に従う行為である。神社界で活躍することは、歴史的に裏付けられている。

『古語拾遺』の保守主義

『古語拾遺』を読んだら、二つの気になある点が浮上した。今回、その一つについて書くし、次回は残りの一つとする。

『古語拾遺』の保守主義は著しい。つまり、(当時の)現在でも、古の高天原の状況をそのまま受け継ぐべきであると繰り返して強調する。二つの要素がある。一つは、祭祀の形を保つことだ。もう一つは、同じ氏族が祭祀を担うことだ。

祭祀の形を保つことは悪くないだろう。それは神道の重要な理想であると言えるのではないかと私もこのブログで述べた。伝統のある祭祀の形式を乱れに変えれば、重要な要素を喪失するので、この側面で過去を尊重すべきであるのではないかと思われる。

一方、同じ氏族を祭祀に当てる方針はいかがだろう。

この方針は、結局保護されていない。広成が執筆した時点でも猿女の君の氏族はもう衰退して、滅亡する寸前だったようだ。数十年以内、もう猿女の氏族を見つけることは無理になった。斎部氏も、100年以上がかかったが、同じような運命にあった。神祇官の祭祀では、「斎部氏代」の役職ができたそうだ。つまり、「斎部氏が担う」と定まった役目は、別な氏族の人が担うしかなかったようだ。

これは、このような保守主義を避けるべき理由の一つであると思う。斎部氏はもういないので、この祭祀を廃止すると思ったら、すべてを失う。だからこそ、事情に応じて新しい氏族の活躍を認めたほうが良い。

しかし、斎部氏はまだ存続しているとしたら、どうするべきだろう。一つの祭祀を一つの氏族の中で保護しても良いのか。

これは簡単に解決できる問題ではない。

一方、特に神道の中で祖先崇拝は重要であるので、一つの氏族がある祭祀を受け継ぐのは当然だろう。今でも、春日大社の宮司は藤原氏の流れを汲む人であるようだが、春日大社はもともと藤原氏の氏神だった。つまり、その氏族のために建立された神社である。周りの人の信仰ではなく、国家の祭祀でもなかった。藤原氏の私的な祭のためにその氏族にとって重要な神様は勧請された。それは奈良時代の8世紀だったので、もう1300年ほど続いてきたし、式年造替はほぼ連綿してきたそうだ。(伊勢の神宮の式年遷宮のような中止はなかったそうだ。)だから世界遺産になっているし、歴史的に重要である。その場合、一つの家族に限るのは良くないと思うのは当然である。一方、最初から一つの家族の神社だったので、奪う理由はなんだろう?

ここで、『古語拾遺』にも出てくる興味深い神話が参考になるだろう。伊勢の神宮は三大神勅の一つに背く施設である。三大神勅は、天孫降臨の際、天照大神と高皇産霊が降った詔であるが、その第一は宝鏡奉斎の神勅だ。その別名は「同床共殿の神勅」である。これは、八咫鏡を皇居の中に鎮座させる内容だが、八咫鏡は神宮の御神体である。つまり、もう皇居にはない。この神話で、神勅の内容が現状にそぐわない場合、神慮が変わる場合もある。つまり、ある家族に春日大社を限定するとしても、新しい伝統を作って、他の人を参加させることはできるのではないかと思える。

このように、伝統と自由を両立できるだろうと私は思う。