神道の八百万の神には様々な特徴がある。それは、理想として撮ることはできるが、これで神道の中で人の多様性を認めることはできる。
例えば、私のように学問が好きな人は、天神信仰に属することはできる。天神信仰で、自分の理想の一つを学問を励むこととする。その詳細は、自分なりに決める。何を勉強するか、どこで勉強するかは、自由である。重要なのは、学問を重視することだ。
しかし、学問に興味を持っていない人もいる。それでも問題はない。例えば、弁財天や天宇受売を崇めれば、音楽や舞楽を励むことで、その信仰の精神を表す。短歌などは、住吉三神が伝統であるが、相撲の神様でもあるので、スポーツに相応しいだろう。熊野三社の八咫烏が日本のサッカー連盟のシンボルになっている、サッカーには熊野三社は良かろう。八幡神は政治家などにも相応しいだろう。
これは、自由である。自分の重んじたいことに相応しい神を探せば良い。その理由は、神社名から取っても良いし、神話からとっても良い。例えば、金華山黄金山神社は、その神社名からお金関係の神社になっているので、金融界で働く人には良かろう。一方、大神神社の大物主神は、蛇に変身して神話に登場するので、爬虫類を研究する人にも相応しいであろう。このような組み合わせは、神社側も手伝っても良い。自分の祭神の利益や歴史を紹介して、どのような活動に相応しいかを紹介すれば、一般人には見つけやすくなる。
この点で重要なのは、神道的な倫理を持つために、このような理想は必要ではない。武甕槌神を崇める武道を生業とする人は、天神の学問を重視しなくても良い。逆ももちろん同じだ。神道的な生活に一般的に重要であるのは、先日掲げた共同体、自然崇拝、先祖崇拝の理想である。それでも、この三つの中の比重が変わると思われる。自然崇拝をかなり重視する人は、もしかして他の理想を実践することは少なくなるだろう。それは人間の容量の問題である。同時にできることには限度がある。核心的な三つの理想を認めなければ、神道であるかどうかは疑わしくなるかもしれないが、現実問題でただ認めることで止まっても良い。さらに、認めなくても、神道の伝統に根付いた祭祀を執り行ったら、神道であると認めなければならない。このような考えで、多様性は重視されるし、神道の寛容も保たれる。
ここで、もう一つ重要な点を指摘したいと思う。神信仰によって異なる理想はもちろん神道人によって異なるが、社会のすべての人間が神道人になるべきであるとは言わない。神道に従わない人は、共同体、自然、先祖を重視しなくても良い。神道は宣教しないので、その一部は神道ではない人の存在を認めることだ。神道の魅力を見せるのは重要であるが、見せるだけだ。「神道人になるべきなのか?」と聞かれたら、「そうではない」と答える。ただ、「なりたかったら、どうぞ。」と言ったら良い。もちろん、そうすれば神道に慕わない人もいるので、社会で沢山の人が共存することになる。それをどう可能とするのだろう。
次回、戒律の役割について論じたい。