寛容の本質

先日、共存には戒律は必要であると述べたが、共存のためには、寛容も必要だと思う。では、寛容は、なんだろう。その問題について考えたいと思う。

まず、寛容は好ましくないことを容認することであると思う。幅広い行動を評価する態度と違う。この両方は良いと私は思うが、根本的に違う。

食べ物の好き嫌いを例えとして考えよう。幅広い食べ物を評価する人は、多種多様な食べ物を美味しく食べる。和食も中華料理も洋食も楽しんで食べる。一方、そうではない人は、例えば洋食しか食べない。和食の生魚に抵抗感を持ったり、インド料理の辛さを嫌ったり、中華料理の濃さを拒んだりする。この人の楽しめる範囲は狭いので、前者の方が良いと言いたいが、好みは人の特有のものだから、批判する根拠はないだろう。

一方、寛容はないことに匹敵するのは、嫌いな料理を禁じようとする人だ。世界中に禁じようとしなくても、自分の周りに食べさせない。例えば、インド料理の匂いが悪いと強調して、自分は入れば、他の人にもインド料理を食べさせない。この寛容不足は、自分の好みがすべての料理に及ばない限り、広くても持つことはできる。和食、中華料理、洋食は良いとする人も、インド料理を自分の周りに食べさせないことはできる。しかし、この場合は、そういう人を批判することもあるだろう。少なくとも、好きな食べ物の範囲が狭い人と大きく違うのは明らかだ。

社会的な、倫理的な寛容も同じだ。私は、多数の生活を評価したほうが良いと思う。スポーツ選手、画家、金融マン、政治家、主婦、店員などなど、この全てには価値があるので、それを広く認めたほうが良いのではないだろうか。しかし、それは寛容ではない。

寛容は、ダメであると判断する行動をそれでも許すことだ。言い換えれば、倫理違反であると判断する行為を容認することだ。

宗教の場合、これはすぐに明白になる。一神教の場合、別な宗教に属することを悪徳な行動であると見做す。他の倫理違反より深刻な罪であると思う。しかし、宗教的な寛容は、複数の宗教の儀式などを許すことである。つまり、倫理違反を許すことだ。生活も同じだろう。例えば、賭博を倫理違反だと思ったら、寛容はその行動を許すことだ。

だから寛容は簡単なことではないし、実に寛容を示す人は非常に少ない。そして、寛容を示しても、誤解されることは多い。寛容すれば、倫理的に大丈夫であると思うと思い込まれるが、そうではないからこそ寛容する。

それに、二つの大きな問題がある。一つは、寛容の限界である。限界があると思うのは当然だ。例えば、殺人を許すわけにはいかない。しかし、悪徳な行為を許すなら、限界の一線をどこで画すのは容易な問題ではない。

もう一つは、寛容すれば、その行動を取れば良いのかという問題だ。寛容すれば、ある行為は悪徳であると思うので、全く批判しないわけにはいかないだろう。しかし、禁じようとすれば、それはもう寛容ではない。この問題も難しい。

後日、この二つの問題を論じたいと思う。


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