『古語拾遺』の保守主義

『古語拾遺』を読んだら、二つの気になある点が浮上した。今回、その一つについて書くし、次回は残りの一つとする。

『古語拾遺』の保守主義は著しい。つまり、(当時の)現在でも、古の高天原の状況をそのまま受け継ぐべきであると繰り返して強調する。二つの要素がある。一つは、祭祀の形を保つことだ。もう一つは、同じ氏族が祭祀を担うことだ。

祭祀の形を保つことは悪くないだろう。それは神道の重要な理想であると言えるのではないかと私もこのブログで述べた。伝統のある祭祀の形式を乱れに変えれば、重要な要素を喪失するので、この側面で過去を尊重すべきであるのではないかと思われる。

一方、同じ氏族を祭祀に当てる方針はいかがだろう。

この方針は、結局保護されていない。広成が執筆した時点でも猿女の君の氏族はもう衰退して、滅亡する寸前だったようだ。数十年以内、もう猿女の氏族を見つけることは無理になった。斎部氏も、100年以上がかかったが、同じような運命にあった。神祇官の祭祀では、「斎部氏代」の役職ができたそうだ。つまり、「斎部氏が担う」と定まった役目は、別な氏族の人が担うしかなかったようだ。

これは、このような保守主義を避けるべき理由の一つであると思う。斎部氏はもういないので、この祭祀を廃止すると思ったら、すべてを失う。だからこそ、事情に応じて新しい氏族の活躍を認めたほうが良い。

しかし、斎部氏はまだ存続しているとしたら、どうするべきだろう。一つの祭祀を一つの氏族の中で保護しても良いのか。

これは簡単に解決できる問題ではない。

一方、特に神道の中で祖先崇拝は重要であるので、一つの氏族がある祭祀を受け継ぐのは当然だろう。今でも、春日大社の宮司は藤原氏の流れを汲む人であるようだが、春日大社はもともと藤原氏の氏神だった。つまり、その氏族のために建立された神社である。周りの人の信仰ではなく、国家の祭祀でもなかった。藤原氏の私的な祭のためにその氏族にとって重要な神様は勧請された。それは奈良時代の8世紀だったので、もう1300年ほど続いてきたし、式年造替はほぼ連綿してきたそうだ。(伊勢の神宮の式年遷宮のような中止はなかったそうだ。)だから世界遺産になっているし、歴史的に重要である。その場合、一つの家族に限るのは良くないと思うのは当然である。一方、最初から一つの家族の神社だったので、奪う理由はなんだろう?

ここで、『古語拾遺』にも出てくる興味深い神話が参考になるだろう。伊勢の神宮は三大神勅の一つに背く施設である。三大神勅は、天孫降臨の際、天照大神と高皇産霊が降った詔であるが、その第一は宝鏡奉斎の神勅だ。その別名は「同床共殿の神勅」である。これは、八咫鏡を皇居の中に鎮座させる内容だが、八咫鏡は神宮の御神体である。つまり、もう皇居にはない。この神話で、神勅の内容が現状にそぐわない場合、神慮が変わる場合もある。つまり、ある家族に春日大社を限定するとしても、新しい伝統を作って、他の人を参加させることはできるのではないかと思える。

このように、伝統と自由を両立できるだろうと私は思う。


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