成長

最後の基本的な倫理目標として、成長を掲げる。成長というのは、一人の人間の成長を指している。つまり、実力を向上したり、知識を広げたり、体力を鍛えたりする行動を考えている。

原則として、全面的な成長を評価する。つまり、体力も知力も感情力も成長するように努めるべきだ。ただし、全面的に集中することはできないので、人によって比重を調整することは必要である。その選択は、発見と創造の詳細によってするべきだ。例えば、発見を重視して、数学での発見を目指したら、知力向上が一番重要になる。一方、創造で石垣を目指していれば、体力のほうが重要である。それでも、数学をするために、最低限の体力は必要だし、重視しないことは無視することではないので、数学者でも体に気をつけなければならない。同じように、力仕事で創造する人も、知識の開発にもある程度努めるべきだ。

成長という目標には、面白い側面がある。それは、成長すれば、明らかに他の目標に役立つことだ。それでも、中間目標として掲げていない。要するに、成長したらできることのために成長を促すわけではない。成長のために成長を促す。例えば、言語を学ぶことは成長の一種である。もちろん、言語ができたらその言語で意思疎通ができるし、本なども読める。しかし、そうしなくても、言語を身につけるのは良いことだ。使わなくても良いのだ。

ここで重要なのは、成長は唯一の基本目標ではない事実だ。発見と創造も目指すべきであるので、当然成長で得た脳力を発見と創造のために活用する。ある程度、発見と創造の目的を考えながら成長の比重を決めることにはもう触れた。だから、長期的に他の目的に活かさない成長は少なくなるのではないかと思われる。しかし、それを条件としない。なんとなく興味が湧いて、自分をある分野で成長させて、そしてその後何もしない場合でも、成長自体はいいことだ。将来的にその成長を活用するのだろうが、そうならない場合もあるし、成長の良さを将来の活用に基づいて測らない。

ここでも但し書きが必要となる。将来の利用は条件ではないが、利用可能になることは目的である。つまり、成長でも目的はその過程の成果である。過程自体ではない。極端な例を考えよう。ある人が1キロを早い時間で走れるように鍛えたとしよう。そして、一年間何も運動しない。もちろん、その能力を失う。そして、また同じ時間で走れるようにする。この行動を繰り返すことを考えたら、決して良いことではない。一つの能力に身につけて、それに他の能力を加えるのは望ましい。確かに事故などで能力を失えば、取り戻すのは良いが方針として失ったり取り戻したりするのは良くない。

この三つの目標で倫理を立てれば良いと思う。この目標は自己中心であると疑われるだろうが、そうではない。目標は発見、創造、または成長の成果である。過程ではない。その成果は、自分があげた成果ではなくても、成果である。つまり、他人の発見、創造、成長を支えるのも、この倫理観の一部である。もちろん、自由を尊重することは一番重要であるので、強制的な成長はありえない。それでも、他人との関わり方の指標になる。これから、それについて論じたいと思う。


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