教育

ここで提案される倫理目的を考えれば、教育の重要性は明白であろうが、今回それについてちょっと詳しく論じたいと思う。

教育は、直接に成長と結びつくのは言うまでもないだろう。学習と訓練も必要だであろうが、他人に教えてもらって、教育を受けるのは成長への近道であるのは確かだ。その上、何かを発見するために、基盤は必要であるし、本当に新しい何かを発見するために背景についての知識は必要不可欠である。同じように、創造する前に知識や技能を身につけなければならない。これももちろん成長と他の目的との絡みの側面でもある。

他人に対する出来事として、教育はこの倫理観の中の重要な役割を担う。相手の自由を尊重したり確保したりする行動は主に消極的であるが、他人に対して何かを積極的にしてあげることも倫理的に重要であると思える。ここで、それが見えてくる。教育するのは重要である。もちろん、自由を尊重するので、教育を押し付けないが、積極的に推進するのは許される。というより、推進するべきである。

それに、教育の好ましい内容も見えてくる。創造や発見に貢献する教育である。もちろん、それは幅広い分野である。私は英語教師として働いているので、言語の教育が明らかにこの範疇に入るのは嬉しいが、哲学などの考え方を教えることも、数学などの技能も明白だ。むしろ、わかるために入らない範囲を考えたほうが早いだろう。例えば、武道は入らないと思う。武術で何か創造することはないといえよう。その目的で開発された技術ではない。同じように、ほとんどのスポーツはそうではない。スポーツでは、ただ試合をするからだ。では、音楽や演技などはどうだろう。演奏だけで、スポーツのようなことで、創造にならないのではないか。

それはない。音楽などの作品は、演奏されるまで本格的に創造されていない。だから、演奏者は創造に協力しているし、その協力は必要である。フィギュアスケートなどの演出のようなスポーツも、創造の範囲に入る。

つまり、相手の自由を尊重しながら、このような教育を提供するのは積極的ないいことになる。

この場合、相手の自由を尊重することは、どういう意味だろう?相手に学びたい内容を教えることではない。自分にとって発見や創造に違反する内容であると思ったら、教えなくても良い。そして、創造や発見に貢献する内容を強く推進するのも良い。ただし、相手にはいつも冷静に考える機会を与えたり、辞める機会を確保するのは重要である。第一段階だけではなく、それからの学習の過程でも気が変わる可能性に配慮しなければならない。一方、そのような機会を設けたら、相手の意志を尊重することは、自由を尊重することになるので教えるのは良い。

最後に述べておきたいのだが、この倫理観で「他の人のためにやる」のは基本ではない。基本は発見、創造、成長であるので、他の人に何も提供しなくても、そのようなことを追求したらまだ良い人であると言える。ただし、それを追求する方法の一つとして、教育は効果的であろう。


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