失敗の位置付け

難しいことを試みると、失敗する可能性はある。新しいことと挑戦すると、失敗する確率は高い。このような事実には、このブログで何回も触れた。その理由は私が難しいことで失敗することは多いからは言うまでもないだろう。今回書こうとした理由も、失敗だ。

今回の失敗は、「中間失敗」と言えるだろう。新しいTRPGを開発しているが、草案を知り合いに試してもらった。すべての評価はまだ届いていないが、まだまだできていないことは明らかである。一方、比較的に簡単に直せる問題はある。例えば、遊び方の一部はわかりづらいようだから、その説明を改善する。このような問題は「失敗」とは言えないだろう。自分の発想は自分で理解するのは簡単だから、足りそうな説明で他人にすぐに理解してもらえないことはほとんどだ。問題を見つけるために、他人に見てもらって、わかりづらいところを指摘してもらうしかないと思う。もう一つの問題は「失敗」だ。「このゲームは楽しくなかった」とも言われた。その理由もかなり詳しく書いてくれたので、なるほどねと思った。この問題を解決するために、また根本的なことを考えなければならない。解決は無理であるとは決まっていないが、解決を見出せるかどうかは、まだわからない。実にやってみないと、誰も知ることはできない範囲に入っている。解決できなければ、新しいゲームにはならない。ちょっと調整して、申し越し既存のゲームの形に近づかせて、楽しいゲームにできると思うが、できれば新しいことは作りたいのである。だから、まず失敗することを味わわなければならない。

それでも、この企画は、現行の方向で失敗しても、何か価値のあることを残すことができると確信する。平凡な作品になるだろうが、それでも価値がある。平凡な作品は人間の充実な生活に総合的に大きく貢献する。そうではない企画もある。

例えば、このブログに触れたことはあるが、意識についてのアイデアがある。意識の本質と結ぶ手がかりはあるのではないかと思う。このアイデアはまだまだアイデアに過ぎないので、価値は殆どない。何かに開発しないと、そのままだ。しかし、開発しようとしても、失敗に終わることはほぼ確実だ。なぜそう言えるかというと、成功すればニュートンやダーウインやアインシュタイン並みの発明になるからだ。能力も運もそれほどあるはずはない。もちろん、重要な問題であるし、興味を持っているが、この場合失敗に終わったら、価値のあるものは残らない。ただの遊びに過ぎない。私は、そのような遊びは好きだから、遊び心でやる可能性はあるが、今そういう風に時間を費やすわけにはいかない。今、家族もいるので、失敗しないお金になることに時間の大半を費やさなければならない。それは適切であると思う。ただ、どのぐらい失敗すれば良いのか、いつも悩んでいる。