10年間を顧る

この投稿で、10年間怠らずにこのブログを毎日更新してきた。サーバーの問題などで公開がちょっと遅れた場合もあったが、それも少なかった。この場を借りて・・・いや、私の場だから、借りる必要はない。ただ顧る。

始まったきっかけは北川景子さんの最初のブログの開催でした。10年前の話なので、まだ大スターではなかった。実は、その時代に、このブログで誰かがリンクして、「北川景子って、有名人ですか?」という質問を自分のブログで掲載した。(もう削除されたようだが。)最初は、もしかして北川さんが読んでくれるのかなと思っていたが、それは10年前の話だから、もうそう思わない。これは失敗だったね。

最初から大きな目的は日本語を練習することだった。その観点から考えれば、大成功だったと言えよう。日本語を書くことがかなり楽になってきたし、日本人に日本語が上手になってきたとも言っていただいた。

他の成果もあった。数回、ブログを読んだ人から連絡をもらって、機会を得た。一番大きい機会は、NHKの「Journeys in Japan」の出演だっただろう。隠岐の島に行けて良かった。しかし、このようなことは、ブログを更新する努力に相当しないので、「成功」というのは難しい。

投稿の内容も変わってきた。9年前に一言の投稿もあるが、それは更新を怠らないためだった。更新は更新だが、最近そのようなことは許さない。(よほどなことはない限り。)最近、短歌を投稿するか、もしくは1000字以上の投稿にするかは基本的な基準である。特に書きたいことが1000字を下回る場合、それを許すことはあるが、少ない。書き方も変わってきた。前は、当日に書いて公開することは多かったが、この数年間事前に書いて、自動的に公開されるように設定した。そうすれば、旅行に行っても、更新が怠らないし、仕事の都合にも合わせられる。それに、毎日違うテーマを扱うより、数週間に亘って同じテーマを検討することが多くなってきた。神道関係や政治、哲学的な内容が多くなってきた。

このためであると思うが、読者数が最近減ってきた。写真は少ないし、文字も多いし、内容も専門性は高くなっているので気軽に読めるブログではないと言い切れる。読者を集める目的を考えれば、大失敗だったが、そのような目的は重要ではなかった。もちろん、「いいな」と思ったことはあるが、北川さんに読んでもらうことも「いいな」と思っていたので、同じレベルだね。

コメントも非常に少なかった。英語のブログは、月に1回更新するが、コメントはほぼ同数になる。日本語の投稿は数十倍であるのに。この理由はよく分からないが、もしかして内容は難しくて、文字は多いことも理由になっているだろう。

楽しんできたことは、自分の考えることを自由に書く場があったことだ。実は、もう私の考え方を公表したと言える。秘密ではない。一方、事実上秘密になっているだろう。3700個の投稿をすべて読まないと、すべてはわからないからだ。そうする余裕と動機はある人はいないだろう。

10年間を完成したので、これからどうするかという質問が当然思い浮かぶ。その答えは、次回論じたいと思う。

そうだ。10年間で閉鎖することにしなかった。

失敗の位置付け

難しいことを試みると、失敗する可能性はある。新しいことと挑戦すると、失敗する確率は高い。このような事実には、このブログで何回も触れた。その理由は私が難しいことで失敗することは多いからは言うまでもないだろう。今回書こうとした理由も、失敗だ。

今回の失敗は、「中間失敗」と言えるだろう。新しいTRPGを開発しているが、草案を知り合いに試してもらった。すべての評価はまだ届いていないが、まだまだできていないことは明らかである。一方、比較的に簡単に直せる問題はある。例えば、遊び方の一部はわかりづらいようだから、その説明を改善する。このような問題は「失敗」とは言えないだろう。自分の発想は自分で理解するのは簡単だから、足りそうな説明で他人にすぐに理解してもらえないことはほとんどだ。問題を見つけるために、他人に見てもらって、わかりづらいところを指摘してもらうしかないと思う。もう一つの問題は「失敗」だ。「このゲームは楽しくなかった」とも言われた。その理由もかなり詳しく書いてくれたので、なるほどねと思った。この問題を解決するために、また根本的なことを考えなければならない。解決は無理であるとは決まっていないが、解決を見出せるかどうかは、まだわからない。実にやってみないと、誰も知ることはできない範囲に入っている。解決できなければ、新しいゲームにはならない。ちょっと調整して、申し越し既存のゲームの形に近づかせて、楽しいゲームにできると思うが、できれば新しいことは作りたいのである。だから、まず失敗することを味わわなければならない。

それでも、この企画は、現行の方向で失敗しても、何か価値のあることを残すことができると確信する。平凡な作品になるだろうが、それでも価値がある。平凡な作品は人間の充実な生活に総合的に大きく貢献する。そうではない企画もある。

例えば、このブログに触れたことはあるが、意識についてのアイデアがある。意識の本質と結ぶ手がかりはあるのではないかと思う。このアイデアはまだまだアイデアに過ぎないので、価値は殆どない。何かに開発しないと、そのままだ。しかし、開発しようとしても、失敗に終わることはほぼ確実だ。なぜそう言えるかというと、成功すればニュートンやダーウインやアインシュタイン並みの発明になるからだ。能力も運もそれほどあるはずはない。もちろん、重要な問題であるし、興味を持っているが、この場合失敗に終わったら、価値のあるものは残らない。ただの遊びに過ぎない。私は、そのような遊びは好きだから、遊び心でやる可能性はあるが、今そういう風に時間を費やすわけにはいかない。今、家族もいるので、失敗しないお金になることに時間の大半を費やさなければならない。それは適切であると思う。ただ、どのぐらい失敗すれば良いのか、いつも悩んでいる。

協力

協力も重要なことである。これに、複数の理由がある。

一番直接的な理由は、多くの発見と創造は、一人で到底できない大きな計画である事実である。例えば、一人で大聖堂を構築することは無理だし、映画を一人で作成するのも難しい。発見も同じだ。粒子物理学では、一つの発見には数千人が貢献すると言われる。数千人に上らなくても、研究論文には4人以上の作者が記載されるのは普通だ。つまり、協力しないと、できない創造と発見は多いので、成果を重視すれば、協力も重視するのは当たり前である。また、人数の問題だけではない。発見や創造には、様々な知識や技能が必要となるが、一人の人間がすべてを身につけるのは難しい。目的が大きくなればなるほど、難しい。能力を合わせるために協力は必要である。

その延長線上、もう一つの重要性がある。大きな発見や創造を指揮するために、かなりの才能を持たなければならない。ほとんどの人はそのような才能を持っていないので、自力で創造や発見とは無縁になると思われるだろう。しかし、協力があれば、必ずしもそうとは限らない。指揮する才能がある人でも、一人で実現できないと既に述べたが、協力者は求められる。それで、指揮できない人は重要な貢献を捧げることはできる。その協力者はいないと、発見や創造は成立しないので、映画の最後の大勢の人の名前が出てくるのは相応しいというしかない。もちろん、監督と俳優が脚光を浴びるが、協働した人の皆を讃えるのは適切な態度である。社会は、光栄を差別的に与えるのかもしれないが、倫理的に自分なりに貢献するのは良い。社会の態度の改善について、別な問題として後ほど論じても良い。

では、協力は成果をあげるために必要だし、才能は優れていない人の発見と創造との関わりを可能とする役割もある。この二つだけでも、重要なことになる。しかし、これだけではない。もう一つの重要な役割がある。

協力しないと、お互いに妨げになることは少なくない。例えば、発見で、同じことを発見しようとしたら、協力しないと最善の場合でも片方の努力が無駄になる。(他方は発見するからだ。)お互いに邪魔になることも多い。例えば、同じ遺跡を調査しようとすれば、同時にできないので、相手の許可や調査の妨げに力を注ぐこともある。創造にはこのような競争はないだろうが、同じ場に出すつもりであれば、一緒に出せるように話し合わないといけない。つまり、周りの人を無視して、自分の作成にしか集中すれば、結局成果が劣化すると思われる。

つまり、成果をあげるために、協力は重要である。一緒に働けば、良いことが期待できる。