神学の根拠

先日、神学の難しさについて述べたが、今回、どうやってできるかを考えたいと思う。

まずもって、神が存在しない可能性を認めなければならない。神道の神の存在を信じる人は多いが、世界観に大きな誤解がある例は歴史を見れば枚挙する暇はないほどある。神道の神もそのような誤解である可能性を最初から否定すれば、真実に至らない恐れがある。その上、前にも指摘したが、完全に存在しないとしても、既存の理解には大きな誤りがある恐れも否めない。水ほど身近な存在でさえ、数千年誤解されていた。酸素と水素の合成からなったものだったとは思われなかった。水は理解できなかったら、目に見えない微妙な存在を正しく理解する確率は低いと言わざるを得ない。

それを前提として、どういう風に調べたら良いのだろう。

科学的な調べ方は適切であるとは限らない。科学は、ある分野の現象を検討するために開発された方法だから、その分野で効率的で、信頼できる。しかし、必ずしも全ての分野に向いているとは限らない。例えば、数値をつけるために計る方法は、文学には相応しくない。確かに文学でも統計学が使える部分もあるが、役に立たない部分の方が広いだろう。神学も同じだろう。

それでも、条件はある。ただ単に自分に都合が良いことを述べるのは、学ぶ根拠にはならない。条件を明記すれば、下記の通りになるだろう。

  1. 検討する内容と密接な関係を持ち、事実と変わると、証拠も変わる。
  2. 複数の人は同じ証拠を確認することはできる。
  3. 二人の学者が結論について違ったら、証拠に基づいて判決できる。

この三つの条件を満たしたら、時間がかかるけれども、事実に迫ることができると思われる。しかし、この三つの条件を満たすのは簡単ではない。物理学などは、1500年の歴史が経ったら、やっと条件を満たす方法が確立された。その前にも、2は満たされたが、1と3はまだまだだった。1の場合、関係は密接ではなかったし、3では決定的な証拠にならなかった。神学では、例えば聖書の解釈に基づけば、2は満たされるが、1と3は不十分である。1の問題は、聖書と神の真実の関係は不明であること。3の問題は、学者は自分の解釈を主張して貫けば、負けないことにある。(ところで、哲学も、分野によって1は問題であるし、3は問題になることは多い。)一方、「直接に神様からの神託を授けた」ということを根拠とすれば、三つとも満たさない。他の人は自分で神託を授けられないので、2はダメである。本当に神様からの神託であるかどうかは保証できないので、1も満たさない。そして、神託を信じない人を説得する資格はないので、3もない。

一気にこの条件を満たす方法を発想することへ難しいが、試行錯誤でいい方法を探って、結局できるのではないかと思っても良いだろう。それとも、探ったら、神様が存在しないことを確信するようになるので、やめる。その二つの可能な結末を考えなければならない。


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