神様実験

神学の根拠となりうる方法を探ると、神様に対する態度を考えなければならない。神様が存在しない可能性を認めても、これは変わらない。検討が始まる時点では、本質を把握する方法を探っているが、その方法はまだない。ただし、神様は意識を持っている尊い存在で、祟る傾向もある言い伝えがある。それを証拠として認められないとしても、完全に無視するのは適切ではないだろう。

一つの意見は、調べるべきではないことである。しかし、これに同意できない。この理解には根拠はない段階で、実際に存在する神様に対して酷いことを思わずやっている可能性はある。例えば、江戸時代の化粧品には鉛が含まれたので、化粧するたびに自分に毒を与えた。神様の性質が分からないまま祭祀を執り行ったら、同じように被害を齎している可能性は否めない。つまり、尊い存在は実にいればこそ研究を行うべきである。

一方、実際に何も存在していない場合、または意識を持っていない存在しかない場合、実験の方法には大きな問題はない。その場合、不敬になるわけはないからだ。磐座には石しかないなら、実験が倫理的な問題には至らない。

人間を実験の対象とすれば、最重要されたのは同意を得ることだ。しかし、神学の実験を始める前には、それはできない。神様には意志があるかどうかは実験の的の一つであるし、その意志を把握する方法も目的である。意志があれば、尊重するべきであるが、意志があるかどうかを判断するための検討も必要だし、あると判断すれば、わかる方法も必要だ。

それでも、既存の祭祀構造を大きく逸脱することはよくないと思われる。その形は長い間整えてきたので、なるべく従えば、不敬になる恐れを抑えられるだろう。(確かに、現行の祭祀は官僚によって勝手に決められたので、特別な資格を持つかどうかは不明である。その上、国家神道の時代には「神道は宗教ではない」と述べたので、神様は崇敬の対象として存在しないことを暗黙前提としたと言えるだろう。この歴史を振り返れば、実験すべきであると感言えるのではないだろうか。)

第一歩は、神様とのつながりを確保することだ。つながりがあれば、意思疎通を図ることはできるが、現段階ではつながりもない。そのようなつながりに発展する手法をとって、祭祀の形の中で探ったら良い。その上、誰でも使える方法で、論争の決着になる質があることも忘れてはいけない。(検討する存在、すなわち神、との関係は、全体的に探っている。)具体的には、御神籤のようなことはすぐに思い浮かんでくる候補であるが、その使い方は次回論じたいと思う。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

“神様実験” への2件のフィードバック

  1. チャート・デイビッドのアバター

    コメントをありがとうございます。この方はもちろん知っています。会ったことはありませんが、この方であるかどうかを聞かれたことはあります。