お礼参り

惟神道を構成する場合、印は必要であるとも言える。つまり、この道を歩んでいる人であることを、周りに見せるための行動は必要である。同じように、同じ道を歩む人同士で認め合うために、何かの印は必要である。その印はその人によって選ばれたら、良いことだ。例えば、キリスト教徒はよく十字型や魚のものを身につける。シーク教徒も髪型などの印は多い。一方、その印は外から強制されたら、大きな問題になる。ヨーロッパでユダヤ人の印はその例の一つである。

惟神道にもこのような印があると良いと思うが、ただ印のためのものは良くないのだ。より深い意味がある印になる何かが適切だと思う。今回、行動から考えたいと思う。

まず提案するのは、毎日のお礼参りである。このお礼参りは、氏神様の神社へのお参りか、神棚の前の神拝か、旅行先の神社へのお参りか、それは問わない。原則として氏神様の神社に指定するが、事情によってそれはできない場合、他の選択肢を取っても良い。

このような毎日の行動は、まずちょっと目立つので、印にもなる。しかし、他の意味もある。

一つは、氏神様までお参りすれば、外出して、ちょっと運動ができることだ。もちろん、家から神社まで歩くのは基本である。過疎地などであれば、それは現実的ではない場合があれば、自転車などでも良いし、一部を自動車で行くことも許されるが、自力でお参りするのは基本とする。

そして、氏神様に毎日お参りすれば、神社の境内の様子をよくわかるようになる。常住する神主がいれば、馴染むとも思える。無人神社であれば、問題が起こったら宮司さんに連絡できるので、神社の保護にも貢献する。例えば、狛犬の盗難は最近あったが、毎日お参りすれば、すぐに発覚して、宮司さんに連絡して、警察の取り調べが早めに始まると思われる。植物などに問題が起こることも同じだ。

また、感謝を口にすることは重要である。人生には問題があっても、感謝することは見つけられる。そのことを認めたら、気分がちょっと楽になるので、毎日の努力の支えになる。確かに、深刻なうつ病になったら、このような手法の効果が薄くなるが、ただ暗い気分にとどまる場合、効果は心理学の実験によって裏付けられているそうだ。

その上、このような行動は昔から神道の心核にあると言われている。感謝の心の重要性は、神道の教えの一部である。毎日の感謝は重要だが、特に祈願が叶ったら、お礼参りに行くのは良いと言われる。特に祈願しなくても、お礼参りに行くことは、この考えを実現する。そして、神様が祈りを聞いていれば、依頼ばかりではなく、感謝のことも聞くのは良いのではないかと思われる。