お礼参りの頻度

前回述べたお礼参りの原則は毎日だったが、それは厳しいのではないかと思われるだろう。今回、その基準について論じたいと思う。

まず、ちょっと難しい目標を立てるのは良い。全然努力を感じない場合は、魅力も薄くなるし、達成感もなくなる。毎日のお参りは、出勤を10分、15分早めたり、1日の構造を工夫したりすることで入れられるので、無理はないが、考えなければ叶わない。その上、特別な才能は必要ない。普通の人でも、十分満たせる基準である。

それでも、仕方がない場合もある。例えば、旅行に行けば、氏神様にお参りできない。遠すぎるからだ。同じように、台風や大雪の日、病気になった場合や子供の世話などに行けないこともある。この場合、事前に基準を決めるのは良い。例えば、気象庁からの警報が発令されたら、お参りに出ないとか、感染病の場合出ないなどのことだ。ただの雨なら、頑張ってお参りした方が良いと言えよう。それも努力の一部である。もちろん、代行となる行動も決める。家にいれば、神棚にお参りして感謝を捧げるのは良い。氏神様のお札が祀られているはずだから、宗教的に同じことになるのではないか。国内の旅行であれば、旅行先の神社にお参りすれば良い。そのような神社は見つからない場合、感謝を自分一人で捧げるのは良い。

では、より深刻な問題がある場合を考えよう。例えば、体の不自由な人であれば、神社まで歩くことはできないだろう。実は、そのようなことを決めつけないほうが良い。足は不自由であっても、意外と動ける人もいる。しかし、そうではない場合もある。その場合、毎日ではなくても、それに自力ではなくても、できれば氏神神社にお参りして、お礼参りをする。全く家を出ることはできないなら、神棚にお参りするしかないが、なるべく毎日するのは大事。重要なのは、自分にとって努力していることだ。もう一つの難しい場合は、海外に住んでいる人である。氏神神社はそもそも存在しないので、お参りすることは当然できない。その場合、神棚を設けて、神拝するのは適切であると言える。(海外に住めば、神棚を設けることはそれほど簡単ではないが、無理ではないので、いい印になる。)

それに、最初は毎日は無理だと感じたら、毎月の1日にお参りすることから始まったらよかろう。それに慣れたら、毎週の決まった日にすることはまた一歩である、そして頻度を上げて、毎日を目指すことはできる。真剣に毎日を目指していれば、それは十分である。そして、評価するのは自分だけだから、自分で真剣であるかどうかを判断する。もちろん、一番の証拠は毎日のお参りに頻度は極めて近い現実である。

お礼参り

惟神道を構成する場合、印は必要であるとも言える。つまり、この道を歩んでいる人であることを、周りに見せるための行動は必要である。同じように、同じ道を歩む人同士で認め合うために、何かの印は必要である。その印はその人によって選ばれたら、良いことだ。例えば、キリスト教徒はよく十字型や魚のものを身につける。シーク教徒も髪型などの印は多い。一方、その印は外から強制されたら、大きな問題になる。ヨーロッパでユダヤ人の印はその例の一つである。

惟神道にもこのような印があると良いと思うが、ただ印のためのものは良くないのだ。より深い意味がある印になる何かが適切だと思う。今回、行動から考えたいと思う。

まず提案するのは、毎日のお礼参りである。このお礼参りは、氏神様の神社へのお参りか、神棚の前の神拝か、旅行先の神社へのお参りか、それは問わない。原則として氏神様の神社に指定するが、事情によってそれはできない場合、他の選択肢を取っても良い。

このような毎日の行動は、まずちょっと目立つので、印にもなる。しかし、他の意味もある。

一つは、氏神様までお参りすれば、外出して、ちょっと運動ができることだ。もちろん、家から神社まで歩くのは基本である。過疎地などであれば、それは現実的ではない場合があれば、自転車などでも良いし、一部を自動車で行くことも許されるが、自力でお参りするのは基本とする。

そして、氏神様に毎日お参りすれば、神社の境内の様子をよくわかるようになる。常住する神主がいれば、馴染むとも思える。無人神社であれば、問題が起こったら宮司さんに連絡できるので、神社の保護にも貢献する。例えば、狛犬の盗難は最近あったが、毎日お参りすれば、すぐに発覚して、宮司さんに連絡して、警察の取り調べが早めに始まると思われる。植物などに問題が起こることも同じだ。

また、感謝を口にすることは重要である。人生には問題があっても、感謝することは見つけられる。そのことを認めたら、気分がちょっと楽になるので、毎日の努力の支えになる。確かに、深刻なうつ病になったら、このような手法の効果が薄くなるが、ただ暗い気分にとどまる場合、効果は心理学の実験によって裏付けられているそうだ。

その上、このような行動は昔から神道の心核にあると言われている。感謝の心の重要性は、神道の教えの一部である。毎日の感謝は重要だが、特に祈願が叶ったら、お礼参りに行くのは良いと言われる。特に祈願しなくても、お礼参りに行くことは、この考えを実現する。そして、神様が祈りを聞いていれば、依頼ばかりではなく、感謝のことも聞くのは良いのではないかと思われる。

惟神道の輪郭

惟神道はどのような形をとるのだろうか。もちろん、日本語で単数と複数は文法的に区別されていないので、この惟神道は一本道ではないことを言っておく。中心に見据える神様によって詳細は異なるのは当然であるので、私は私が縁を感じる高神産霊神と嘉神産霊神を中心とする道を描写する。だが、ここは出発点になる。

まずは、一般的な道ではなくて、神祇の道だから、神事が重要になる。神事が重要にならないと、惟神道と呼ぶ根拠が曖昧になる。

そして、神産霊の神なので、創造も中心となるのは当たり前だ。造化三神の二人なので、神話で宇宙の発生と深く関わる神様である。

その上、神道の歴史を見たら、共同体の重要性は明らかだから、共同体で何か作成することも重視する。ただし、創造は必ず集団でできることとは限らないので、集団で作成することに専念しない。

個人的に、行動を禁じたくない。それより、ある行動を促進したいと思う。もし良い影響を周りに与える行動に時間を使ったら、悪いことをする余裕が残らない。さらに、「禁物を避けて、自己中心なことにどうやって達成できるか」と考えたら、結局悪影響になりかねない。一方、「どうやってこの良い影響を与えられるか」と考えたら、結果が良くなるに違いない。ただ、これはできるかどうかわからない。人間は、自分の都合に良い方向で状況を捉える傾向は強いので、禁止令でそのような危険を防ぐ必要はあるのではないかと思う。それでも、積極的な内容を中心としたいのは変わらない。積極的な行動から始まって、それに加えるべき禁止令を最後に考える。(もちろん、この道には拘束力はないので、誘導されない人には禁止令は無効である。)

前回述べたように、人間の生物的な意欲は計画などを崩壊する傾向があるので、道でその意欲を抑制しなければならない。歴史や宗教を見れば、重要なのは色欲、食欲、物を集める意欲、麻薬など依存と関わるもの、そして賭博であろう。一方、最近ネットで面白い猫動画を見ることの危うさも露わになっている。歴史的な倫理制度に触れられていない理由は、15年前に存在しなかったからだが、大きな問題であるのは否めない。テレビをだらだら見ることも同じような問題である。このようなことを抑制するために、禁じるか、制限するかしかない。前回言った通り、制限した方が有効ではないかと思うが、客観的な制限ではないと効果は見込めない。

最後に、ある程度余裕が入らないと、魅力的にならない。だから、創造する内容を自由としなければならないだろう。

このような条件を踏まえて、道をさらに考えたいと思う。