浄明正直の「正直」をとりあえず組み合わせとして解釈したが、明を一文字として考えたい。問題は、人生の方針として、明は何を表すのか。文字通り光ることはできないので、比喩的な意味になるのは当然だが、どのような言動が明となるのだろう。「明」は良いイメージを持っているので、評価する言動と結びつけるのは普通だが、この段階でどのような言動を評価するかをまだ考えている。つまり、すぐに特定できるとは限らない。
では、良い比喩になるために、明の性質に合う意味を選ばなければならない。明は、光るところから広がり、隠すことは難しい存在だし、直線で素早く移動して、制限なく遠くまで行ける存在である。その上、多くの場合、無差別的に広がる。
「浄明正直」によって、単独の言動の望ましいあり方を指すつもりだ。それは、他人に影響を及ぼすが、基本として一人でできることを意味する。例えば、相手はいないと根本的に無理であるため、支え合いは「浄明正直」の内容には入らない。そして、相手を支援する前に、相手にとって何が良いかを決めなければならない。「浄明正直」を単独の人間にとって良いことだと位置付けて、それを礎として共同体などを考える。
それでは、「明」を何にするか。私は、何かを創造することに匹敵する。何かを創造すれば、自分から外へ出す。そして、周りの環境に何か良いことを与える。創造は、自分の中にとどまらずに、形にすることを指すこととする。つまり、ただの夢ではない。夢を何らかの形で具現化する。ただし、何かを残すのは目的ではない。創造して、放つのは大事だが、例えば演技などの発表もこの創造に当たる。さらに、他の人が一人でも見なくても構わない。重要なのは、創造して提供することだ。自分から世界へ創造的な影響を与えることが目指されるが、結局見られなくても、それでも創造的な影響を与えている。特に神道の世界観なら、人間はいなくても、その場の神様が見るのではないか。奉納芸能や奉納美術の感覚に近い概念になるのではないか。
この明の概念を表現すれば、自分の成長や言動を自分の中にとどまらず、そして自分の娯楽のための行動にとどまらずに、何かを創造して、世界に放つことだ。しかし、これは世界のためではない。明は自分のための行動である。自分の放ちたいことを放つ。自分を表現して放つ。このブログのような概念だよね。もちろん、他の理想を考えたら、他人のことを考えることになると思われるが、それは順番に考える。