自由と中立

また行政の自由への関与を考えてきた。もちろん、先日審議したヘイトスピーチ問題は主なきっかけとなっている。

表現の自由と言論の自由を考えれば、ヘイトスピーチを許すべきである。英語の「スピーチ」は「声での表現」という意味だから、明らかに「表現」の範囲に入る。その上、表現と言論の自由は極度に尊重すべき自由である。理由は二つある。一つは、全ての改善は表現から始まることだ。社会構成の一変の変更もそうだ。例えば、明治維新は表現から始まったし、男女平等運動も奴隷制廃止運動も表現から始まった。この全ては当時の常識と社会の秩序に違反した主張だったし、尊皇攘夷の思想は、権力者の将軍に対する謀反だったとも言える。男女平等は、当時の倫理の根本を覆すことだった。改善は、その当時に改善として認められない場合は多いので、全ての表現を自由としなければならない。二つ目の理由は、表現自体は他の人の自由を制限することは少ないからだ。「それはダメ!」と言われたからといって、できなくなるわけはない。「あなたは馬鹿!」と言われても、馬鹿になることもない。つまり、この重要な自由を、他の自由への侵害をあまり恐れずに保障できる。

しかし、である。現実の世界はそれほど簡潔であるわけはない。表現だけでも、加害することもある。

最初に断るべきなのは、被害者がいるからといって、表現を制限すべきではないということだ。多様な自由な社会で生きていれば、他人の表現から不快感を覚えることは覚悟しなければならない。その不快感は、他人の自由を尊重するための負担に過ぎないので、負うべきだ。

それでも、問題になる表現もある。例えば、ハラスメントに至る表現はそうだ。ある団体が学校の前で毎日「あなたたちを追い出すぞ」などと叫んだら、それは表現の範囲を超えたと言わざるを得ない。(前にも触れたが、同様に街角の広告は表現の範囲を超えている。重要なのは内容ではなく、形だ。)毎日何回も侮辱されたら、それは大きな精神被害となり、自由を厳しく制限してしまう。だから、ハラスメントを制限すべきである。線を引くのは難しいが、少なくとも繰り返しは必要だ。一回で何かを言われただけであれば、ハラスメントではない。

では、社会は一般的にあるマイノリティーに対して批判的になったら、どうなるのか?そのマイノリティーの人は、毎日侮辱される。しかし、ハラスメントを行う人はいない。一緒に企ててハラスメントに展開させる人もいない。ハラスメント罪で逮捕できる人はいないが、社会の態度のため問題が発生する。そのような社会であれば、行政の基本義務は住民の自由を保障することだから、表現を制限するしかないだろう。しかし、それは憂うべき状態であると言わざるを得ない。

その窮地に陥らないように、常時から行政が寛容などを推進するべきだ。つまり、ヘイトスピーチを禁止しないが、そう考える人は少数であるように積極的に活動する。行政は中立であるべきではない。自由を保障する態度や行動を推進する。

他の分野も同じだろう。原則として、大家さんには部屋に住む人を自由に選ばせるべきだが、日本の現状のように外国人には借りることが困難となったら、外国人の自由を保障するために大家さんの自由を制限しなければならない。しかし、そう考える大家さんがわずかになったら、禁止令を撤廃しても良い。200人に一人の大家さんは外国人拒否になったら、もう自由の制限であるとは言えない。

要するに、行政には住民がお互いに尊重しあって、お互いに自由を守り合うように積極的に推進すべきである。そうすると、自由を保障するために自由を制限することは少なくなるのではないかと思ってきた。