昨日、日本人である感覚について論じたが、性別の場合のように他の生地があるのではないかと思える。確かに性器の構造ほど単純な生地はないと思うが、当事者の感覚に限らないとも思える。
性器の構造に似ているのは、やはり肌色と顔立ちだろう。「日本人」を想像すれば、その二つが決まっているのは私だけではないだろう。(はい、そうだ。「日本人」を想像すれば、自分に似ていない人が思い浮かぶ。)しかし、これは十分条件ではない。なぜならば、韓国人は日本人と区別できないからである。必要条件としようとしたら、難しくなる。「テルマエロマエ」で、日本人の顔立ちをある程度持っていない日本人が古代ローマ人の役を担ったし、肌色はかなり違う。それより何より、肌色や顔立ちはそれほど重要であると思われないだろう。日本人の素晴らしさを讃える論文では、性格や振る舞いを取り上げるが、外見を取り上げないようだ。
性格を基準として取り上げたら、やはり奥床しさ、謙虚さなどを掲げるだろう。しかし、日本人の性格を讃える人のほとんどは、日本人がその性格を具現しなくなっていることを憂える。性格が日本人である基準になったら、その性格が当てはまらない人は日本人ではないことになる。だから、資格を決める性格ではないようだ。その上、性格の基準は感覚のような様子になって、生地には当たらない。
しかし、そのようなことは考えられる。一つは、日本生まれ育ちのことだろう。確かに、日本の教育を受けて、ドラえもんを見ながら育つのは日本人の重要な生地である。この経験は、日本人らしい「常識」を持つための条件になるだろう。一方、これも決定的ではないと言えよう。帰国子女は日本人ではないと言いたい人は極めて少ないし、間違っていると私は思うが、帰国子女はある程度日本生まれ育ちではない。
これに似ていることは、日本人を親を持つことだ。親は日本人であれば、日本の文化を体験するし、日本人らしく育ててもらうだろう。もちろん、親を日本人とする基準も問題になるが、これも生まれ育ちの一部である。
しかし、生まれ育ちだけではない。日本に永年住めば、常識を吸収したり、ドラえもんを娘の後ろから見たりするだろう。一方、永年アメリカに住めば、日本人らしさが衰えるのではないかとも言える。
趣味や職業も重要だろう。日本に住んで、刀剣の作成の技術を継承する人は、ある意味日本人であると言えるのではないか。
このようなことを鑑みれば、「日本人」の基準は単純ではないことを考えるようになるのではないか。私のように外国で生まれ育った人で、肌色と顔立ちは一般の日本人と明らかに違う人類の人は、ある意味日本人の資格を一部持っていないと言える。一方、肌色や顔立ちは典型的な日本人で、江戸っ子で、祖先も遡って江戸っ子でも、アメリカを憧れ、アメリカの文化ばかりに没頭して移民して、アメリカで人生を構える人も、日本人の資格の全てを持っていないと言えるのではないか。
しかし、そう考えれば、日本人であるかどうかは、「はい・いいえ」という質問にはならない。そのことについて、次回考えたいと思う。