「多文化共生社会」と「多様社会」

「多文化共生社会」はよく讃えられている。私も「多文化共生社会推進指針に関する部会」の一員である。しかし、この「多文化共生社会」という表現に対して、違和感を抱くようになってきた。

社会には多文化があれば、私には私の文化、あなたにはあなたの文化、彼女には彼女の文化がある。この多くの文化が共生しても、それでも別々な文化である。この文化が共生する社会は分断されている。この問題は、アメリカでもヨーロッパでも明白になってきた。

国間の共生共存では、多文化は良い。それを認めないと戦争や帝国主義が発生してしまうので、多文化共生国際社会は必要不可欠。しかし、国の間の絆は希薄になるものだ。日常生活で一緒に住む環境ではない。

しかし、同じ国、同じ町に住む人は、毎日接触したりするので一緒に暮らしている気持ちは重要だ。一体感はないと、分断と軋轢が問題になるのではないか。だから、国の中で一つの文化は必要だと思ってきた。

ただし、その一つの文化は均一であってはならない。そして、一つの文化のためによその国から人を招いて、生活させるべきだと思う。社会の多様性は宝物である。多様な社会は豊かな社会で、協力の社会は強力な社会。

「多文化共生」と唱えたら、「私の生き方を変えずに、他人の生き方に無関心のままで良い」と思ってしまうことはある。そして、「他人の行動が私の文化に邪魔をすれば、訴える」との認識も蔓延する。多様社会では、同じ社会、同じ文化であるので、詳しくならないとしても、周りの行動に関心を持たなければならないし、周りの人が自分と異なる生活を送っても、同じ文化であると認める。その上、周りの行動で魅力がある何かを見たら、その何かを直ちに自分の生活に取り入れても良い。自分の文化の一部であるので、すぐにできるはずだし、調整しても差し支えない。この過程で自分の生活も段々豊かになる。生まれてからの習慣も保つのは当然だが、新しい概念や活動を見て、導入すれば、予想さえできなかった楽しみもできる場合は多い。例えば、魚を生で食べる楽しみとか。

このような機会を増やすために、行動を別とする人を近々に暮らさせたり、多様性を増したりすれば良い。お互いの調整や融合で輝く宝石の社会が生まれてくると確信する。

このために移民は必要である。移民はないと、外国からの文化の要素を導入することはできない。天ぷら、肉まん、ピザは外国人と一緒に日本に入ってきたが、全てを排除しようとする保守派の人さえ少ない。一方、一つの文化で暮らすために、移民にはその受け入れる国の文化に融和する義務もあると思う。双方が調和を図らなければならない。

だから、結局のところ、多様社会を促進するための施策と多文化共生社会のための施策は同じである。違和感を抱くのは、呼び方にとどまる。