創造の位置づけ

創造は重要である。このブログを読んでくださった方にとっては、これは驚くほどの発言ではない。英語では「Art」という言葉を使うが、日本語でぴったりの訳語はない。美術も狭いし、芸術も狭いし、「作品」だけなら過程より物を指す。小説も絵画も踊りも演出もこの概念に入る。大きく言えば、生活に必要とならないことを作成する行為を考えている。

このような創造は、文明の目的の一つであると私は思う。安定した社会を確保する理由は、市民にこのような作品を作るための余裕を与えるためである。このような創造は、何のために存在するかではなく、このような創造のために社会が存在するという立場だ。

それでも、来年からしばらくの間このような創造をしないつもりになっている。理由は複数ある。

まずは、もうした。Ars MagicaもTamaoも『椿堂』もそのような作品だ。皆が皆このように創造すべきであるとは言いたくないが、私はそのような人間であるとしても、もうできた。他の目的に時間を費やしても構わない状態になっている。

そして、別な意味で創造することはやめない。新年の抱負の投稿で詳しく説明するが、芸術的ではない創造もある。

その上、二つの大きな理由がある。

一つは、創造はお金にならないことだ。私には家族の大黒柱になる責任を背負うので、それを果たさなければならない。創造がお金になったら話は別だが、そうならないことは普通だし、私の場合でもある。お金になることに時間の多くを注がなければならないので、創造のための時間を割くのは難しい。

そして、社会はこのような創造のためな仕組みであるとしても、必ずしもその役割を果たすとは限らない。現在の社会は、その役割を完璧に果たしているとは言えないので、環境の整備に時間を費やすべきだと思ってきた。このきっかけは今年の世界中の予想外の結果である。イギリスもアメリカも好ましくない方向に向かっているので、日本が逆にさらに良くなるように貢献したくなった。ただ自分の問題と取り組むのは良くないと思ってきた。

それも、お金にならない。(川崎市の委員会にも報酬があるが、生活の基盤に至らない。)だから、仕事の合間を縫って取り組むしかない。そうすれば、創造する時間が完全になくなるのではないかと思っている。少なくとも、その余裕があるように計画を立てるのは良くないだろう。

要するに、重要な活動であるが、私個人にとって、暫くの間できないと判断して、休む。