心游舎のクタニシールワークショップと東京大神宮

10日に真由喜と一緒に心游舎が東京大神宮で開催したクタニシールワークショップに参加しました。最初の予定は真由喜が参加して、私がただの付き添えにすることだったが、着いたらキットが余ったという話で、私も参加した。

このワークショップは、九谷焼の体験だった。湯飲みの焼き物はもう用意してもらったが、その九谷焼の装飾は私たちがした。このクタニシールは、石川県にある上出長右衛門釜の6代目の上出惠悟氏が発案したもので、シールを貼ってから釜で焼いてもらったら、本物の九谷焼のような色鮮やかな模様になる仕組みである。今回のワークショップで、一生懸命シールを貼ることだった。

私は、真由喜と一緒に行くために仕事をだいぶ休んだので、出発する直前真由喜が「いきたくない」と言い出した、ちょっとゾッとした。幸い、すぐに納得できたし、真由喜は前向きな態度に変わってくれた。そして、着いたら、挨拶などをちょっとつまらなさそうに臨んだが、ワークショップ自体が始まると、夢中になって、私の手伝いをちょっとだけもらいながら、自分なりの湯飲みを用意した。自分の名前をローマ字で書いたし、その日のために特別に用意していただいた心游舎のシンボルマークと東京大神宮ゆかりのスズランのシールを使った。湯飲みの出来上がりはやはり楽しみにしている。

そして、ワークショップの後で神社の参拝があった。ここで、真由喜はちょっと抵抗を見せた。「参拝は何回もやったし」とブツブツ言いながら参列したが、作法にきちんと従ってくれた。やはり、子供は必ず親の趣味を共有するとは限らないね。それは、心游舎のワークショップへの参加の制限にもなる。内容は真由喜にとって面白くなかったら、私も参加できない。(大人向けのワークショップは別だが。)

解散の後で、東京大神宮の境内を見たので、真由喜が縁結びおみくじをもらうことにした。参拝する列はすごかったので、パワースポットになった意味が実感できた。東京大神宮は明治初期の建立だから、御祭神は伊勢大神と造化三神と倭姫命になっている。造化三神の二人は高神産霊神と嘉神産霊神(東京大神宮の表記は違うけれども)ですので、その読み方に出る「むすび」は「縁結びの」に結びついている。その上、初めて神前結婚式を行なったのは、東京大神宮だから、その側面からも繋がりがある。このような現象は興味深いと思うが、ここで分析はできない。

ところで、ワークショップは、『神社新報』の記者が取材したが、私に挨拶して、ブログをご覧になってくださっていることを明らかにしてくれた。『神社新報』の記事についての感想をさらに気をつけなければならないだろう。

不正アクセス

昨夜、何者かが不正にこのブログにアクセスして、あるファイルを改竄した。今日、パスワードを変えたり、バックアップから復元したりした。その過程で、使っていたテーマはもはや維持管理されていないことがわかったので、使わないことにした。(安全性は保証されていないからだ。)いつか、また私なりのテーマを選ぶが、今そうする余裕は全くないので、当分の間デフォルトのテーマを使用する。

バックアップから内容のほとんどを復元できたが、一つのコメントは復元できなかった。すみません。(安全なバックアップに入っていなかったからだ。)

これから英語のブログも管理しないといけない。めんどくさい。

北川景子氏の『30』

本日、北川景子氏の第2弾の写真集の『30』が発売された。もちろん、予約注文したので、今日届いた。この投稿で感想を書かせていただく。北川さんに興味はない方や、まだ写真集を見ていない方は、これより先読まない方が良かろう。北川さんに興味をもって、まだ写真集を買っていない方には、オススメである。

この投稿は書評より、感想だから、主に写真集を見ることができる方を対象とする。

今回の写真は、前回の『27』より大人らしくなると言われたが、それはどういう意味かは正直わからない。確かに、北川氏が30歳になってきたし、顔立ちなどには変更が見えるが、無邪気な遊び心が見える写真は今も少なくない。そして、個人的な好みといえば、フィレンツェで撮られた写真は一番気に入りだが、第一弾は宝塚の男役に似ていると思うのは私だけだろうか。

「大人らしく」というべきかどうか分からないが、『27』と比べたら、相違点があると思える。簡単に言えば、『27』の写真は主に「パリーでの北川さん」の写真だったが、『30』の写真は主に「北川さんが出る芸術作品」である。インタビューでも触れられているが、ロケや服装の組み合わせを考えた上で、ポージングや組み合わせで客観的な美を生み出そうとしたような気がする。もちろん、写真に詳しくないので、さらに写真集なら北川さんのものしか知らないので、この意見には根拠は強くないだろう。インタビューで「ありのままの姿を見せたい」とも言っているが、それは主に東京での写真だろう。イタリアは、まぁ、一流女優の北川さんであれば、ありのままかもしれないが、現実とかけ離れた印象も強いのだ。

これで、原因の一つになったのかもしれないことは、インタビューも、握手会についての北川さんのラインでも浮上した。北川さんの結婚によって、離れてしまったファンも生じたことだ。そして、今回の握手会の参加者の7割は女性だそうだが、『27』の握手会では、男性は女性の倍ぐらいだったとの印象だった。(前回、私は参加したが、今回他の用事と重なったりしたので、参加しない。)つまり、離れたファンの大半は男性だったようだ。それを考えると、写真集を買った人の過半数は女性だったのかもしれない。北川さんのような美人であれば、特に美術性に拘らなくても写真集を十分楽しめる。しかし、女性は同性愛者ではない限り、同じような効果はない。だから、満足を得るために、写真の美術性にさらに拘る必要があるだろう。もちろん、『27』でも、単純に北川さんの美貌に頼ったわけはないが、上記の通り、『27』は「北川さんの写真」だったことに対して、『30』は「北川さんが登場する作品』になっていると言えよう。

ところで、この結婚離脱の問題はちょっとわかりにくい。男性のファンの多くは本当に結婚を目指してファンになったのだろうか。ファンであれば、個人的な関係を得るような夢を持つのは当然だが、夫婦以外の関係は多いし、配偶者は一人しかいないので、その心理は本当に分からない。北川さんが正直にこの問題を指摘したことから、解消に動くように願う。

そして、インタビューは興味深い。私も作品を出すキャリアをしてきたので、ファンの反応の重要性はよくわかる。私の場合、ファンは非常に少ないので、やる気が低迷することは少なくない。ただし、単純にファンを喜ばせるために働くのはよくないと私は思う。自分に現したい作品を実現させることも重要だと強調したいのだ。ファンに人気を博しない作品にも価値がある場合は少なくない。もちろん、作品だけを考えるのもよくない。誰も興味を持っていなければ、作品の意味の大半が失われる。一方、数少ないの人が好む作品にも価値がある。ファンの反応は一部に過ぎない。

最後だが、北川さんの白無垢の写真は大変美しい。妻の白無垢を思い出すほどだ。一般に妻は北川さんより美しいとは正直言えないが、その姿は、やはり妻の方が麗しい。

「多文化共生社会」と「多様社会」

「多文化共生社会」はよく讃えられている。私も「多文化共生社会推進指針に関する部会」の一員である。しかし、この「多文化共生社会」という表現に対して、違和感を抱くようになってきた。

社会には多文化があれば、私には私の文化、あなたにはあなたの文化、彼女には彼女の文化がある。この多くの文化が共生しても、それでも別々な文化である。この文化が共生する社会は分断されている。この問題は、アメリカでもヨーロッパでも明白になってきた。

国間の共生共存では、多文化は良い。それを認めないと戦争や帝国主義が発生してしまうので、多文化共生国際社会は必要不可欠。しかし、国の間の絆は希薄になるものだ。日常生活で一緒に住む環境ではない。

しかし、同じ国、同じ町に住む人は、毎日接触したりするので一緒に暮らしている気持ちは重要だ。一体感はないと、分断と軋轢が問題になるのではないか。だから、国の中で一つの文化は必要だと思ってきた。

ただし、その一つの文化は均一であってはならない。そして、一つの文化のためによその国から人を招いて、生活させるべきだと思う。社会の多様性は宝物である。多様な社会は豊かな社会で、協力の社会は強力な社会。

「多文化共生」と唱えたら、「私の生き方を変えずに、他人の生き方に無関心のままで良い」と思ってしまうことはある。そして、「他人の行動が私の文化に邪魔をすれば、訴える」との認識も蔓延する。多様社会では、同じ社会、同じ文化であるので、詳しくならないとしても、周りの行動に関心を持たなければならないし、周りの人が自分と異なる生活を送っても、同じ文化であると認める。その上、周りの行動で魅力がある何かを見たら、その何かを直ちに自分の生活に取り入れても良い。自分の文化の一部であるので、すぐにできるはずだし、調整しても差し支えない。この過程で自分の生活も段々豊かになる。生まれてからの習慣も保つのは当然だが、新しい概念や活動を見て、導入すれば、予想さえできなかった楽しみもできる場合は多い。例えば、魚を生で食べる楽しみとか。

このような機会を増やすために、行動を別とする人を近々に暮らさせたり、多様性を増したりすれば良い。お互いの調整や融合で輝く宝石の社会が生まれてくると確信する。

このために移民は必要である。移民はないと、外国からの文化の要素を導入することはできない。天ぷら、肉まん、ピザは外国人と一緒に日本に入ってきたが、全てを排除しようとする保守派の人さえ少ない。一方、一つの文化で暮らすために、移民にはその受け入れる国の文化に融和する義務もあると思う。双方が調和を図らなければならない。

だから、結局のところ、多様社会を促進するための施策と多文化共生社会のための施策は同じである。違和感を抱くのは、呼び方にとどまる。