乃木神社で大人心游舎

昨日、心游舎が開催した講演を拝聴させていただいた。心游舎は、前にも紹介したが、彬子女王殿下が発足され総裁をお務めになられる団体で、当初の目的は子供達に日本の良き文化を紹介することだった。経験を重ねて、大人にも紹介しないとうまく行かないことに決めて、最近「大人心游舎」のイベントを催すことになった。昨日のイベントはその3回目だったそうだ。

会場は乃木神社だったので、最初は正式参拝をした。参加者が全員本殿の前まで参進したが、もう日が暮れていたので境内は行灯などによって照らされたので、雰囲気は大変良かった。本殿の前に拝殿と幣殿のような建物があるが、壁はなく、ただの屋根になっている。昨日は季節外れの暖かさで良かった。

そして、講演の前に雪餅という和菓子とお茶を楽しめた。この雪餅は、数百年の歴史を持つ老舗の製品で、賞味期限はただの数時間だそうだから、普通に販売されていない。しかし、今回は、殿下のお印は雪だし、季節もあっているので、用意してくれたそうだ。外は山芋と砂糖から作られた真っ白な雪みたいな形で、中は黄あん。

主役となった講演は、室瀬和美氏によって行われた。室瀬氏は漆と蒔絵の師匠で、いわゆる人間国宝である。漆の原点と歴史、そして漆の器の素晴らしさ紹介した。

最後に質疑応答があったが、これで一番印象に残ったことがあった。

まずは、漆器は高いということ。お椀を買ったら、1万5千円を目安として、2万円を用意したら良いと言ったが、そのようなお椀は50年以上持つと強調したので、高くない。そして、漆器や蒔絵を作るための必要な道具を作る職人は、分野ごとに一人しか残っていないそうだ。10年後、どうなるかはわからないという状態に陥っているそうだ。しかし、その職人を支えるために、漆器の職人の数を増やさなければならない。そのために、漆器を買う人の人数を増やさなければならない。しかし、便利で安いプラスチックな器を買う人は多い現在では、それはどうできるかは問題だろう。

伝統文化を支えるために、利便性と効率から離れなければならない。伝統文化は、技術に身につけた方が想いを込めて物や演技を提供することだから、そうできるようになるための努力も、その作品を作り上げる時間のためにも支払わなければならない。伝統工芸品を買うと、物より師匠の時間を買っているので、値段が高くなるのは当然だ。そして、工芸品は数十年使い続けるので、消費社会にそぐわない。ここで、深い問題が潜んでいると思うしかない。解決策は、私にはまだない。

差別の救済と解消

先日、川崎市人権施策推進協議会多文化共生社会推進施策に関する部会の会議に出席した。今回のテーマは、外国人市民を対象とする入居差別についてのヒアリングだった。川崎市が今年度新しい協議会を立ち上げたが、その協議会でこのような問題を審議して対策を決める予定である。協議会は住居に困る市民一般を対象とするので、例えば高齢者、障害者、ひとり親世帯などが大きな話題になるようだが、外国人市民の問題も取り扱うそうだ。ヒアリングでその対策を担当する部署の担当者と同じ問題と長年取り組んできたNPO法人の理事長の出席をいただいた。

理事長によると、この10数年であからさまになる外国人市民に対する差別が少なくなったそうだ。当初、「外国人お断り」と明言する大家さんや不動産屋さんは少なくなかったそうだが、最近「そのような物件はない」などのような曖昧な表現で断るし、人権や差別に意識を持っている業者の数も増えたそうだ。それは歓迎できる現象である。

そして、市の話からも、理事長の話からも改めて痛感したことは、救済と解消の違いだった。市の制度では「協力業者」の指定があるが、それは外国人などの入居者を歓迎する業者を指す。今のところ、川崎市内の業者の2割を占めるが、市によると拡大することは優先されていない。なぜなら、制度の運営には十分であるからだそうだ。同じように、NPO法人は最近偏見を持つ大家さんと接しないが、その原因の一つはそのようなところを最初から避けるからだそうだ。入居後、長く落ち着いて住み続けるために、嫌悪感を持たない大家さんや業者は重要であるからだ。

救済の立場から考えれば、これは否定できない。今苦しんでいる人を今救済するために、理想的な社会の構築を待つことはできない。今の社会の中で協力してくれる人と協働して、眼前の問題を解決する。それが円滑に進むため、問題を起こす人物との衝突を避けるのは名案だと私も思う。そして、このような政策で、今の問題が解決され、被害者の人生が立ち直る。

一方、問題を解消するために、あるいは減少させるために、問題を起こす人と積極的に取り組まなければならない。思わず問題を起こしている人は、指摘すれば改善してくれることもあるが、積極的に指摘を行わない限り、気づかない。そして、問題を起こしているのがわかるが、改善はめんどくさいのでしない人もいるだろうが、そのような人は、積極的なアプローチと対応することはさらにめんどくさいと感じたら、改善してくれる。積極的に問題を起こそうとする人は、もしかして何もできないが、環境整備と取り組んだら、そのような人が少なくなるだろう。

そして、施策が進めば、もう一般的な啓発をしなくても良い状態になるだろう。差別を行う人は小さな少数派になるので、問題が実際に起こることも少なくなるし、救済が簡単になるので、そのままで市民は誰でも安心して暮らすことはできる。

これから、意識しながら救済と解消の両方を重視したいと思う。

迷惑回避の困難

周りの人に迷惑をかけないように生きることは、さほど簡単ではない。ごく日常的な場合を考えよう。首都圏で仕事へ通勤する場合である。地下鉄などは混んでいる。周りの人に迷惑をかけないことは、歩く道を塞がらないこと、電車の中で傘で刺さないこと、声で不愉快な気持ちを与えないこと。と同時に、自分の電車の乗り換えなども行わなければならない。自分の後ろに立っている人の迷惑にならないように、いつも全体像に気を配らなければならない。これはそもそも難しい。失敗する場合もあるのは決まっている。

この事実に向き合って、頑張る決意を改めるが、他人が失敗する行為に対して寛容にすることも重要だ。迷惑をかけたことは、意図的ではない可能性も高いし、その場で指摘することも迷惑になる。

生活一般と考えれば、さらに難しくなる。極端な例を挙げよう。日本には「大和民族」ではない人がいるべきではないと思う人は、外見から民族が違う人を見たら、気持ちが悪くなる。私を見たら、即座に大和民族ではないことがわかる。明白だ。では、そのような人に迷惑をかけないように、私はどうするべきだろう。非常に少ないと信じたいので、実際に何もしなくても良い。ただ、偶然にそのような人に会わないと願うするだけだ。会わないと、迷惑をかけないからだ。しかし、そのような人が大会を開けば、行くべきではないだろう。行ったら、迷惑になるからだ。そして、そのような人が多くなれば、外見は隠せないので、生活をするしかない。その人も、私に迷惑をかけないようにしてもらうしかない。

しかし、人がそう考えるかどうか、わからない。私の服装は平凡的だが、それに反発する人もいるだろう。この主体的な迷惑を避けるのは極めて難しい。なぜなら、何が迷惑になるかさえわからないからだ。予想できる範囲はある。他人の行動の自由を制限しないようにすることは、一般に迷惑を避ける方法だから、実現しても良い。同じように、軽蔑することは、その対象となる人の迷惑になるので、そのような行動も避けた方が良い。この問題には、礼儀作法がかなり貢献する。共有される礼儀は、迷惑にならない行動を決める。礼儀の通り動けば、ほとんどの人は迷惑を感じない。列を組むことも礼儀の一種だし、挨拶も同じである。この役割を担うために、礼儀作法には二つの要素が必要となる。一つは、簡潔で、すぐに身につけられる内容だ。礼儀作法を学ぶことは大変であれば、あまり利益にはならない。もう一つは、共同体に共有されていることだ。共有されていなければ、迷惑回避に貢献しないからだ。

それでも、迷惑をひたすら回避しようとすれば、問題の放置の恐れがある。前にも触れたが、迷惑にならない解決に向ける道は必要。この問題についてまた考えたいのだ。