迷惑

今朝のNHKのラジオニュースで、スポーツ関係のニュースは二つあった。一つは、あるゴルフ場は女性を正社員として認めないことで、国際オリンピック委員会が改善を求めたが、そのゴルフ場の理事の一人がその請求は「迷惑」であると主張した。もう一つは、フィギュアスケート選手の一人が怪我を負って、大会に欠場することにしたが、選手本人が「ご迷惑をかけて申し訳ない」と発表した。

西洋の立場から見れば、首を傾げる。前者は、倫理義務を果たしていないので、その事実を指摘されることは迷惑とは到底言えない。後者は、自分の責任ではないし、出場できない選手こそは困るので、謝る必要性は全く感じない。しかし、日本の感覚で当然に言えることだろう。少なくとも後者のような発言はよく耳にするので、不思議がられていないと思っても良かろう。この現象を手掛かりとして、日本的な寛容や共生の態度を探りたいと思う。

迷惑というのは、他人に不便をかけたり、嫌な気持ちを感じさせたりする行為を指すだろう。電車が遅れると、それは迷惑。近辺で工事を行うと、それも迷惑。人の行動を批判すれば、それも迷惑。この迷惑は、正当性や妥当性とは関係はありません。安全確認のために電車を止めたら、それは正当な理由になるし、むしろ動かしてはいけない。それでも、迷惑をかけているので、アナウンスで謝るには決まっている。

このような概念を高く評価できる。共生共存のため、周りの人の気持ちを損なわないように、そして行動に邪魔にならないように努めるのは効果的だろう。例えば、相手の行動は良くないと思っても、それを指摘しない。その代わりに、自分の行動は正しいと思っても、他の人は嫌ったら、隠す。それは恥ずかしいからではなく、相手に迷惑をかけないためである。些細なことにも効く。人が思わず自分の前に横切りしても、指摘しない。迷惑になる行為について、一般的に喚起するが、特定の人に対してその場で言うことは、対象となる人の迷惑になるので、避ける。これで本音と建前の一部が成立する。相手の行動は嫌であっても、それは示さないので、建前は穏やかだが、本音は不愉快である。自分の方針は、自分の行動が他人の迷惑にならないことを優先することだ。社会的な方針で、他の人も迷惑をかけないように促すが、それは社会の責任である。自分一人ですることではないのだ。

この反面で、自分の行動は、こっそりとすれば他人が関与しないことは期待できる。

この態度は、欧米での、特にアメリカでの行動と大きく違う。アメリカなどで、自分の妥当性をお互いに強調し合うのは求められている。

双方には利点と欠点があると思うが、日本のやり方を勧める立場から数回に亘ってこの問題を論じたいと思う。