民間の迷惑

一人の民間人がある行動を拒んでも、それは法律が関与する迷惑に当たるのだろう。原則として、そうではないと言いたいのだ。理想は、自分のやりたい行動を思うまま実現できる状態だが、他人の予定や行動と不合致することは少なくない。恋する相手に振られることはすぐに思い浮かぶが、二人が同じものを買いたいこともあるし、人気な映画が満席になることもある。このような場合、法律が関与するべきではない。

民間の間の法律が関与する迷惑は、行動の一つの実現方法を拒むことではなく、その行動に類似する行動を無理にする状態、または余計に難しくする状態である。しかし、そうなるために民間人の多くが同じ拒みに一致する必要がある。例えば、私は映画を見たかったら、一つの映画館で拒まれても、隣の映画館で見られたら、私の行動には大きな支障はないので、前者の映画館の拒む権利を尊重すべきである。一方、町の映画館の全てが拒む場合、または映画館は一つしかない場合、法律が関与するべきである。その場合、私の映画を見る自由は大きく制限されているからだ。

これで重要な一点が浮上する。一人だけがすれば許すべき行為は、頻繁に起こるようになったら制限すべきであることもある。実際の例を挙げたら、外国人を拒む大家さんは一人しかいなかったら、それを制限する必要もないし、制限すべきでもない。外国人も、外国人嫌いの大家さんから借りたくないだろうし、一人だけだから別なところに住めば良い。しかし、現実はそうではない。外国人が家を探せば、拒まれることは多い。家探しが特に難しくなる。結局無理ではないが、余計に難しいと言える。その場合、制限すべきである。家主はその人だけならできることは、その人だけではないから制限すべきである。これは、大家さんが談合して外国人を拒むことを決めるかを問わず。重要なのは、結果であり、経緯ではない。刑法であれば、意図は重要な要素になるが、これは民法の関与を考えている。

気持ちを悪くする行動もこの範疇に入ることはできる。そのような行動が事実上の行動の制限になる場合、制限すべきである。例えば、朝鮮人についてひどいことを言うのは朝鮮人の行動の制限にならないが、学校の前でそのことを続けたら、事実上制限になる。

このような判断は簡単ではない。機械的に当てはまる規則でできない。だからこそ、判断を裁判に委ねるべきだ。しかし、その原則を認める法律があると良いと思うし、場合によって法律で問題に対応すべきである。原則として、そのような法律に時間制限を設けるべきであるが、同じ問題が自然に生じる場合、恒久の法律にすれば良い。

それでも、法律で強制できることは、迷惑の最低限の減少に限る。迷惑は本当に少ない社会を作るために、住民の行動は必要不可欠である。

法律と迷惑

法律は、迷惑とどう対応すべきかは、重要な問題である。法律の重要な役割は住民の間の対立が自然に解決されない場合、その解決を命じることだ。迷惑の処分はそのことに当たる。つまり、刑法に当たることは少ないと思う。刑法に管轄される迷惑は暴力や窃盗などの大変な場合に限ると思われる。普段は、民法でやるべきことを定めて、必要に応じて強制的にやらせるか賠償させるかということだろう。

では、詳細はここで決められないが、その輪郭を描くことに試みたいと思う。

まずは、法律の関与をなるべく抑えるべきだ。法律の関与自体は迷惑になるからだ。そして、実際の関与だけではなく、関与の恐れも迷惑になる。特に、個人的に迷惑をかけない方針では、相手の気持ちに障ることも避けようとするが、法律はそれほど主観的なことを扱うべきではない。つまり、ある行為は嫌だという根拠に基づいて法的な処分を求めることはできない。原則として、その迷惑が自分の行動の自由を制限することを必要とする。自分の思うままにできないことは大きな迷惑になるので、これを基本として認めるべきだと思う。

この迷惑を退ける方法は二つある。一つは、国家が設置した制度などから発生する迷惑をなくすことだ。例えば、同性婚はできないことは、このような迷惑になる。そして、同性婚は認められないことで、同性愛者の行動の自由へ制限されているので、法的な処分の対象に値する。一方、同性婚に反対する人の気持ちはそれに値しない。同性婚を認めても、反対する人の行動の自由には何も支障はないからだ。気持ちが悪くなるのかもしれないが、それは法律で考えない。

もう一つの範疇は、民間人がやる行動で他人の迷惑になっていることだ。ここも、気持ちの問題は問わない。例えば、靖国神社での祭祀に反対する人の自由は一部たりとも制限されていないので、法律的に靖国神社の祭祀を制限すべきではない。

では、ある人がある芸能人に対して恋を感じて、あの人に結婚を強く請求するが、断れているとしよう。この場合、行動の自由は制限されているだろう。恋する相手と結婚できないが、同性婚の場合、それを大きな行動の自由の支障として認めた。裁判で求婚の受け入れを要求できるのだろう。できないのは当然だろう。結婚したくない相手の自由も考えなければならないし、美人の芸能人であれば求婚する人は多いので、皆と結婚できるわけはないし、大半の自由を制限しなければならない。結婚の場合、その関係を拒む人の自由を優先すべきだと思うが、より一般的な基準は必要。このような問題は、求婚に限らないからだ。

構造的な迷惑

アメリカのような共生共存のやり方の大きな利点は、ある種の人には問題があれば、完全に無視することは難しい点である。自分の立場を強調し合うので、自分の感じる不便や差別をすぐに明らかにする。そして、そうすることは、社会的に認められている。もちろん、そのまま受け入れつ問題を解決するとは限らない。現在のアメリカを見れば、それは明白である。しかし、このような問題は感じられている事実は、知らない人はいないだろう。数百万人のデモがその事実を宣伝する。

日本の場合、迷惑をかけないように、自分の問題を他人にはっきり言わないのは原則である。そして、仮に誰かがそう言っても、社会的には不適切な行為であるので、退けることは比較的に簡単である。個人から発生する迷惑の場合、これも大きな問題にならないだろう。問題になる個人を避けたら良いし、それは迷惑をかけない原則にも従う。ただし、その迷惑は社会の構造から発生すれば、状況は大きく違う。

例えば、現行の民法で同性の二人は結婚できない。そのため、夫婦に与えられる利益も得られない。同性愛者にとって、これは大きな迷惑である。夫婦の相互権利は強いし、重要である。しかし、この迷惑は、同性婚に反対する人を如何に避けてもなくならない。法律が改正されるまで、迷惑が残る。法律自体が迷惑をかけている。憲法によって、この迷惑を訴える権利は保護されているが、そのやり方は定められていない。同性愛者はどうすれば良いのだろう。

例を変えれば、方法が見えてくるだろう。川崎市では、川崎市外国人市民代表者会議がある。この会議で、外国人市民は自分の体験する迷惑を挙げて、市長に改善を求めることはできる。この会議は、そうするために市によって設立されたので、会議の提言を提出することは迷惑にならない。2年に1回その提言が出てくることは、市長も行政もわかるので、対応することはただ業務の一環となる。そのため、市側はかなり肯定的に対応してくれる。市の管轄に入る提言であれば、すぐに解決に向けて動き出す。(簡単に解決できない問題も指摘されるので、何でもかんでも即時に解決してもらうわけではない。)

構造的な迷惑を退けるために、このような手続きや制度は必要である。選挙はその一例であるが、選挙で別々で問題に対応することはできない。全体的に国や自治体の状況を考えるしかできない。つまり、迷惑をかけない理想を徹底するために、構造的な迷惑を訴える制度は必要である。それは、法律が作る制度的な迷惑を含むので、裁判での手続きは足りない。立法との連携も必要である。それでは、制度があるとしたら、どのような関与をすべきなのだろうか。それは、次回論じたいと思う。

迷惑

今朝のNHKのラジオニュースで、スポーツ関係のニュースは二つあった。一つは、あるゴルフ場は女性を正社員として認めないことで、国際オリンピック委員会が改善を求めたが、そのゴルフ場の理事の一人がその請求は「迷惑」であると主張した。もう一つは、フィギュアスケート選手の一人が怪我を負って、大会に欠場することにしたが、選手本人が「ご迷惑をかけて申し訳ない」と発表した。

西洋の立場から見れば、首を傾げる。前者は、倫理義務を果たしていないので、その事実を指摘されることは迷惑とは到底言えない。後者は、自分の責任ではないし、出場できない選手こそは困るので、謝る必要性は全く感じない。しかし、日本の感覚で当然に言えることだろう。少なくとも後者のような発言はよく耳にするので、不思議がられていないと思っても良かろう。この現象を手掛かりとして、日本的な寛容や共生の態度を探りたいと思う。

迷惑というのは、他人に不便をかけたり、嫌な気持ちを感じさせたりする行為を指すだろう。電車が遅れると、それは迷惑。近辺で工事を行うと、それも迷惑。人の行動を批判すれば、それも迷惑。この迷惑は、正当性や妥当性とは関係はありません。安全確認のために電車を止めたら、それは正当な理由になるし、むしろ動かしてはいけない。それでも、迷惑をかけているので、アナウンスで謝るには決まっている。

このような概念を高く評価できる。共生共存のため、周りの人の気持ちを損なわないように、そして行動に邪魔にならないように努めるのは効果的だろう。例えば、相手の行動は良くないと思っても、それを指摘しない。その代わりに、自分の行動は正しいと思っても、他の人は嫌ったら、隠す。それは恥ずかしいからではなく、相手に迷惑をかけないためである。些細なことにも効く。人が思わず自分の前に横切りしても、指摘しない。迷惑になる行為について、一般的に喚起するが、特定の人に対してその場で言うことは、対象となる人の迷惑になるので、避ける。これで本音と建前の一部が成立する。相手の行動は嫌であっても、それは示さないので、建前は穏やかだが、本音は不愉快である。自分の方針は、自分の行動が他人の迷惑にならないことを優先することだ。社会的な方針で、他の人も迷惑をかけないように促すが、それは社会の責任である。自分一人ですることではないのだ。

この反面で、自分の行動は、こっそりとすれば他人が関与しないことは期待できる。

この態度は、欧米での、特にアメリカでの行動と大きく違う。アメリカなどで、自分の妥当性をお互いに強調し合うのは求められている。

双方には利点と欠点があると思うが、日本のやり方を勧める立場から数回に亘ってこの問題を論じたいと思う。