穢れ論:その1

今、英語の神道についてのエッセイを書いているが、そのテーマは穢れとお祓えである。それで、穢れは何かと説明しなければならないので、その神髄について考えていた。英語のエッセイでいわゆる正当な解釈しか述べないが、それに基づいて考えてきたことはこのブログで公表できるので、そうする。

糸口として、穢れの原始的で素朴な形を考えよう。それは汚れである。汚れは何だろう。すぐにわかると思われるが、一般的に言えばそれほど単純ではない。例えば、靴に土がついたら、それは汚れた靴であるが、花壇に土があっても、花壇は汚れていない。同じように、着物に墨がついたら、着物は汚れてしまうが、和紙に墨をつけても、汚れているとは言えないだろう。汚染も同じだ。放射能漏れでも、原子炉の中であれば、汚れではない。つまり、汚れは、不適切な場所にあるものであると定義しよう。

では、穢れは同じであるとしたら、具体的にどういう意味になるだろう。穢れは、適切な位置から乱れたものである。

血が穢れとなるのは、肌が切られ、血が流れる場合に限るが、それは明らかにちが適切な場所から逸脱した場合である。(ちなみに、この考え方を取れば、月経の血は穢れにならない。なぜなら、流れるべきであるからだ。)病気も、体の均衡が乱れているか、細菌などが不適切に体に入っていることなので、同じ概念に含まれる。

そして、大祓詞の罪穢れを見たら、同じことになると言える。例えば、畦を壊すことは、盛り土を適切な場所から出すことだ。重ね蒔きは、種を不適切な場所に蒔くことなので、また同じだ。生き肌を切ることは、血を乱れに流れさせることでもある。母と娘を犯すことは、適切な性的関係を逸脱ことなのだ。

内心的に考えれば、穢れは安定していない気持ちを指す。そのような気持ちは落ち着いたところにはないので、そのように整えた方がいよい。それができるまでに、穢れて、気力が劣るだろう。このような、「気が枯れる」の「穢れ」の解釈とも結びつく。

一見見れば、もしかして穢れはただ悪いことと言っているのではないかと思われるかもしれないが、ちょっと違う。この穢れの概念の前提は、何かに適切な場所があることである。つまり、整理するべきであると考えている。穢れは良くないことの基本であれば、体を洗わないことは、他の人に傷をつけることと同じような行為になる。それは、西洋の善悪の概念と大きく異なるので、ないようなないとは到底言えない。そして、秩序や作法または清潔を重視する日本人の考え方に相応しい概念だと言えるのではないか。

それでも、このぐらい抽象的な言い方なら、内容は確かに不明であるので、続きでより具体的に考える。


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