祓え論:その2

祓え論の後半が遅くなったが、いよいよ書く余裕を見つけた。前回、祓えで思わずに乱したものやどうしても片付けられない状態に対して祓えを行うと良いと述べたが、今回別な状態を論じたいと思う。

それは、意図的に起こした穢れの祓えだ。ここで、二つの重要な場合があると思う。

まずは、本人の感覚から発生する場合だ。それは、あることは適切な位置にないが、今ある位置にあるべきであると思う状態だ。些細な例を考えよう。うちにチビ子がいつとしよう。その子は、自分のおもちゃを遊び部屋に散らかしている。その状態を見れば、「片付けたいな」と思う人は少なくないだろう。しかし、子供のおもちゃに勝手に手を出せば、子供に傷をつけたり、自立心の芽生えの妨げになることもある。その散らかした状態が他の人の迷惑になっていなければ、片付けない方が良いだろう。それでも、落ち着けない。散らかしているので、なんとかしたい。その場合、祓えはよかろう。お祓えすれば、穢れの側面がなくなるが、物理的に片付ける必要はない。儀式の効果を実感すれば、落ち着くだろう。

この概念は、ある人の基準や理想は完璧に合致しないことを前提とする。確かに完璧な理論を持つ人も存在するが、少数派だろう。理想と基準の矛盾が露わになったら、気持ちが乱れる。その場合、祓えでその矛盾を認めるし、全ての理想や基準の重要性を認めるので、自分にとって重要なことに目を潰す必要はない。一方、全体的に見てどうすれば良いかと決めて、その判断に従える。これも心残りであると言えるが、この場合片付けることはできる。ただし、そうすれば別な意味でよくない状態だ発生すると判断したので、片付けないことに意図的にした。

もう一つの場合は、個人的ではない。今までの穢れと祓えの概念は個人的であったが、神道の見方は個人主義ではない。共同体を重要とする。それを穢れの概念に当てはめれば、共同体が設定する適切な位置からはみ出るものは穢れとなる。社会の秩序から乱れる人の行為は、穢れの原因となるのだ。

しかし、場合によって、ある人は社会の秩序に賛成できない。自分の良心で社会の秩序に従えば悪徳な行為になると判断する。その場合、社会の秩序に違反するしかない。社会が悪いことを強いようとすれば、反発するのは適切だ。それでも、その行為を穢れとして認めるべきだろう。特に、その社会を妥当な社会として認めれば、その破壊が設定する秩序も認めるべきなのではないか。確かにナチスドイツのような社会であれば、社会の妥当性を認めず、社会の秩序を壊しても穢れも認めない場合もあるが、その場合はそれほど多くない。普通に、社会は概ね妥当であると思うが、ある点で間違っていると判断する。その場合、社会を認めるので、穢れも認めるべきだ。

このような場合、お祓えで個人と社会の和解を図ることはできる。祓えで、個人の穢れがなくなるが、行為を変える必要はない。個人が祓えの必要性を認める行為で、社会の妥当性を認める。一方、社会が祓えで解決する判断で、個人の異議も認める。つまり、和を重視する仕組みだ。

もちろん、他の人に損害を与える行為はそう簡単に対応できるわけではないが、穢れと法律が完全に重なり合うとは思われない。しかし、宗教的な儀式としての祓えの位置付けとして、話と寛容を大事にする概念になると思うので、これに基づいて考え続けたいと思っている。