本物の個人主義

個人主義を強く批判する人は少なくない。日本では、特に保守派で目立つかもしれないが、右翼にも左翼にもよく見られる。自分の利益しか考えずに、社会全体を考えるべきだ、と。

ただし、不思議なことに、「社会全体の利益」はいつもその主張する人の思想にそう。「社会全体の利益を考えるべきだが、私はその利益について間違っているので、私が悪質と思うことをすべきである。」と強調する人はもちろんいないが、「社会全体の利益に貢献すべきだが、私の社会全体の利益には誤解がある可能性は決して排除できないので、もしかして私が否定的に思う行動をするべきだろう。とりあえず、私はこのような提案を掲げる。」と言う人も少ない。

この傾向は当然だと思う。人間は、自分の信念を正しく思う傾向は極めて強いし、私も例外ではない。だって、自分の考えることは、正しいと思うからこそ考えるだもの。間違っていると思ってきたら、もう信念としないはずだ。そして、自分の信念を他人に伝えようとすることも当然な行為だと思う。このブログは、ある意味その目的で書いているし。

それでも、そのような行為は個人主義の本質なのではないだろうか。つまり、自分の理念を他人に押し付けようとする行為は、自分の主張を他人より高く評価することである。当然であるとしても、それでも個人主義であることには変わりはない。

「社会全体の利益を考えなさい!」というのは個人主義であれば、個人主義ではない行為は一体何なのだろう。重要な一部は「和」だと思う。つまり、周りの人に迷惑をかけないことで、和むことである。その周りの人は、自分の考えに基づいて行動するが、その人も和を保てば、社会全体を考えているとは否めない。

もちろん、今述べたことは、他人に対して私の個人的な思いを押し付けようとすることでもある。このような個人主義を避けるのは容易ではないのは先に認めたが、本当にそのとおりだ。では、どうすれば良いのだろう。自分の個人主義を認めたら、異論する人は根本的に自分と違う立場にいないことも認めるのではないか。つまり、誰でも自分の理念を強調しているにすぎない。それで、自分の理念の勝利を得るために、強いることはできないことを認めなければならないだろう。自分は正しいとしても、それを押し付けるのは個人主義である。もちろん、個人主義を容認して、そのように行動することも主張できるが、その場合個人主義を肯定的に受け入れなければならないので、相手も個人主義を主張して自分の道を選んでも不思議ではない。個人主義を否定的に考えれば、自分の理念を魅力的に見せるしかないだろう。そして、魅力を感じない人もいるかもしれないので、それも覚悟すべきなのではないだろうか。

そうしないと、自分の理念を絶対的に優先して、一般的な規則から逸脱しても良いと思いがちである。正義を貫くために、些細な規則を破っても良いという認識だ。個人主義を批判する人の間に、そのような行動は少なくない。社会を自分の理念にそう程度まで認めれば、その結果は当然であろう。

個人主義は日本の伝統ではないという主張のは正しいと思ってきたが、日本の保守派が讃えることも個人主義であると感じることは多い。本当に保守派といったら良いのだろうか。

「本物の個人主義」への4件のフィードバック

  1. 理念+→自己肯定感(自尊心)が高い.個人主義
    理念-→自己肯定感(自尊心)が低い.利他主義
    大和民族は全体主義の傾向が強い。ものづくりに長けているのもこの全体を考慮し行動するから真価が発揮されると言われている。
    まあ、何事も中庸が大事。二・六・二の法則というのがあって、自分のことしか考えない自己中心な性格の人もいれば、それらと大局的に常に他人に敬意を抱き、博愛心のある人もいる。勤勉な人もいれば、怠け者もいる。民族性(国民性)というのも、個々の人格の総和の平均である。民族性というのも、天災や古来の政治制度による民草への抑圧の加減などの内在的影響や戦争や外来書物からの感化などの外来的影響などで、熟成されてきた結果だとおもう。

    オールコック『大君の都』
    オールコック(山口光朔訳)『大君の都-幕末日本滞在記』岩波文庫青424-1~3, 1962.
    >たしかに日本人は、なんでも二つずつというのを好むようだ。二元的原理が人間の組織のなかにはいり、全自然に浸透しているのをわれわれは知っているが、日本の特質のなかには、この二元的なものが、どこよりもひときわ念入りに進歩しているようだ。ある博学な医者が主張するように、われわれが外見上二つの目と耳をもっていると同じく、頭のなかには二つの完全な頭脳がはいっていて、そのおのおのが両者を合わせた機能のすべてを果たし、また独立したいくつもの思考さえ同時に営むことができるということが事実だとすれば、日本人の頭脳の二重性はあらゆる種類の複合体を生み、政治的・社会的・知的な全生活のなかにゆきわたり、これらをいわば二重化する方法を生み出してきたと見なすことができるであろう。日本では、ただひとりの代表だけと交渉するということは不可能だ。元首から郵便の集配人にいたるまで、日本人はすべて対になって行動する。 (上巻, pp. 259-260)
    http://www7.plala.or.jp/juraian/jpnrep.htm

    日本人はバランス感覚に長けていると言いたいのだろうか。

  2. >すべてこういったことのなかで、われわれが第一に知ることは、妙に自己を卑下する傾向であり、個人主義・自己主張がある程度欠けているということだが、これは、他面、かれらの国民性のなかのあるものに非常に反している。日本人は、自分の種族や国家を誇り、自分の威厳を重んじ、すべて習慣やエチケットが規定するものを怠ったり拒絶したりすることによって自分たちに投げかけられる軽蔑とか侮辱にたいして、きわめて敏感である。それゆえ、当然のことながら、かれらは儀式張って堅苦しい国民である。かれらが軽蔑とか侮辱に敏感であるのにまったく正比例して、他人を腹立たせたり、他人の気にさわることを避けるために、非常に気を使う。 (上巻, p. 263)

    英人の言う個人主義が日本人には欠落しているようだ。

  3. S様、いつもコメントをありがとうございます。おっしゃる通り、民族性は性格の平均を表す概念だと私も思います。アメリカ人に絶対に負けない気の強い日本人と会ったことがあるが、平均はやはり違いますね。

    ただし、「欠落」を判断するのは極めて難しいとも思います。なぜなら、基準も国によって異なるし、ある国の基準はその国の現状を肯定的に評価する傾向もあるからです。英国から見れば欠落だとみなす要素は、日本から見たら美徳でしょう。

  4. 従順ならざぬ日本人と評価され、天皇からの贈り物をそこら辺に置いておけと言ったマッカサーに対し、叱り飛ばした白洲次郎とか有名ですかね。陸軍だと舩坂弘とか。

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