してもしなくても、悪

この世で、いい選択肢はない場合は少なくない。特に、ある状態に対して手を出したら問題になるので、出すべきではないが、一方その状態を放置するわけにはいかないので、何もしないとダメだ。例えば、他人の子が悪いことをしたら、叱るとその子の親の子育ての自由を侵すが、何もしないと悪いことを黙認する。その場合、どうすれば良いのか。

良い選択肢はない。何をしても、悪い選択肢を選んだ。

では、戸惑うべきだろう。

ここで、問題提起には問題があることに気づかなければならない。現実では、二つの選択肢しかない場合はまずない。他の選択肢は多くあるはずだ。そして、その選択肢の中、問題なくいいこともあるはずだ。実は、できないほどいい選択肢は多いに違いない。つまり、いいことを怠るしかない。いい行為の中から選ばなければならないので、なぜわざわざ悪いことを選ぶのだろう。

しないと悪いことはいつも多くある。現実に提供されている選択肢から一つのいい行為を選んでやれば、できることはもう尽くしている。

しかし、一番いいことを選ぶべきと反論する人もいるかもしれない。それは、一番いい行為を選ぶ余裕があることを前提とするが、ほとんどの場合そうではない。確かに、すぐに優先順位を見ぬけられる場合、優れる行為を選べば良いが、区別できない選択肢は複数あると思われる。その中から、自由に選んで、まだ意味があるうちにやると良い。してもしなくても悪い行為を最初から排除すべきである。


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“してもしなくても、悪” への2件のフィードバック

  1. Sのアバター
    S

    子育てに悩んでいる?御息女を品格と教養を兼ねた淑女、撫子としたくて奮闘しているのか。

    さて投影は親子の間でも起こる。しかしこの場合は親が子供に投影するのではなく、子が親の影を引き受ける場合が多い。ひとつ例を挙げよう。
    私の以前住んでいた町に衆議院議員がいた。彼は人当たりも良く人望も厚かったので、選挙運動の期間が始まり自宅前で出陣をする時には、近所の人たちが党派を超えて集まり、応援したものだった。その彼に二人の息子がいた。兄は品行方正で勉強もでき、よき青年の手本といった感じだった。一方弟は勉強もせず、ワルの仲間と付き合い、しばしば問題を起こしていた。
    この場合、世間の人がどう言うか大体予想はつくと思う。そう、『兄は父親に似たのに、どうして弟は父親に似なかったのだろう』だ。しかし深層心理の説明するところでは二人とも父親によく似ている。何故なら意識と無意識の力学のところで説明したように、父親はペルソナ(社会的仮面)としては良き議員、良き父、良き夫であり、これが強く意識される状況に置かれているため、逆に無意識にはこれと正反対のものが増大し溜っていたと言えるからだ。すなわち兄は父親の陽(意識)の方に似ることとなり、弟は陰(無意識)の方に似ることとなった。これは言い換えれば、兄は父の陽の方に自らを投影したのであり、弟は陰の方に自らを投影したのだと表現される。
    http://mitsuno-y.com/file/200902/09_122127.html

  2. Sのアバター
    S

    仏像・御朱印の次は「参道」ブームか  ツイッター上に研究会できる

    参道。「社寺に参詣するためにつくられた道」(広辞苑)。御朱印や仏像がブームになるなど、神社や寺への関心が高まっているが、お参りのとき私たちは、通るその道のことをどれだけ意識するだろうか。
    そんな参道を愛する人たちがいる。「参道と一口に言っても、さまざまな景観が見られるのが面白いところですね」――そう語るのは、ツイッターで「参道研究会」を名乗り、写真の投稿を続ける、京都府在住の「永太郎」さんだ。

    写真投稿相次ぐ
    以前から参道をこよなく愛してきた永太郎さんは2017年2月、ツイッターで「参道研究会」の結成を宣言した。研究会、といっても活動は、SNSでハッシュタグ「#参道研究会」をつけて、自分の撮影した参道の写真を投稿する、というものだ。

    その理由は、「まち歩きに新しい視点を持ち込みたい」との思いからだったという。

    「普通ならば見向きもされないようなものも楽しむことができれば、まちを歩くのがとても楽しくなるんじゃないか。そう思って、私も『路上観察』的な活動をしてみたいと思うようになりました。じゃあ自分ならではの新しい視線とはなんだろう、と考えてきたときに浮かんできたのが『参道』でした」

    ツイッターでは、趣旨に賛同した人たちが、これまでに訪れた参道の写真を相次いで投稿している。風景やそれにまつわる逸話など、注目するポイントはさまざまだ。

    「福島県桧原湖の湖畔にある神社なのですが、参道が湖に続いています。これは、磐梯山山体崩壊に伴って参道が水没したためなんだそうです」

    「向日神社の、斜面にも関わらず真っ直ぐな参道がけっこう好き」

    「京都・泉湧寺の参道。参道は登るものが大半であるように思う。泉湧寺のように下る参道は比較的珍しいのではないだろうか」

    「参道という視点で巡礼したことなかったな?色んな視点で信仰や歴史を訪ねる。面白いな~今度から登山する時は参道もチェックしとこ」

    永太郎さん自身は、参道の伸び方やにぎわいなどに目を留めることが多いという。駅から参道がつながり、にぎやかな商店街がある寺もあれば、大きな神社でも駅から遠く、参道にお店などがあまりないところもある。はたまた、「理念上」の参道と、交通の便などから「実質的」な参道が分裂している場合もあるという。

    参道によって「実に多様な姿」がある
    永太郎さんは、高校生のころから「参道」に興味を持っていたという。

    「私は神社をまわるのが趣味で、よく地図を見ながら小さい神社を探し歩いていました。そこで気づいたのは、『神社は周辺の景観に強い影響を与えている』ということです」

    参道は神社そのものではないが、その道沿いには鳥居や灯籠など、「神社らしさ」を感じさせるものが多くある。京都の愛宕神社のように大きな神社なら、飲食店や土産物屋が門前町をなしていることも少なくない。

    「さらに、景観には現れていなくても、地図で見ると、神社からまっすぐ伸びる道がずっと続いていたりと、参道を感じさせる道は多くあります」

    2キロに及ぶまっすぐな参道が続く、埼玉・氷川神社。鳥居の前を京阪電車が通り、参道が分断された滋賀・関蝉丸神社。京都・西本願寺のように仏具店が建ち並ぶ参道もあれば、占い屋が集まる大阪・石切劔箭神社、あるいはラブホテルに囲まれた大阪・生國魂神社のような「聖と俗が混じりあう」参道もある。

    店でにぎわう参道から、厳かな参道まで。まっすぐな参道から、くねくねと曲がった参道まで。「参道によって実に多様な姿がある」(永太郎さん)。

    京都・愛宕神社の参道が一押し
    観光地として有名な、京都・嵐山。そこから、火除けの神様として知られる、愛宕神社への長い参道を、永太郎さんのガイドに沿って解説してみよう。

    愛宕山を望みながら、まずは嵐山~嵯峨の落ち着いた街並みを歩いていく。しばらく行くと、愛宕神社の門前町として栄えた「佐賀鳥居本」の一角に入る。国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定された、茅葺屋根の民家が残るエリアだ。昔ながらの趣を楽しみながら、清滝の山道へ。

    「その名の通り清らかな川が流れており、6月ごろには蛍も見られます」(永太郎さん)

    登山道の周辺には、地蔵や石碑などが並んでいる。古く「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山へは月参り」といわれ、京の人々から身近な信仰対象として親しまれた愛宕神社だけに、かつてはこの道にも茶屋があったという。

    参道らしい情緒を感じつつ、山道を登って行けば、目の前についに愛宕神社が現れる――。

    「この神社も素敵なのですが、我々が注目するのはあくまで参道なので、ここでは割愛します(笑)」(永太郎さん)

    http://news.so-net.ne.jp/article/detail/1385851/