和ものびと

昨日、真由喜と一緒に和ものびとが主催したイベントに参加させていただいた。とても楽しかった。和ものびとという組織は、日本の伝統芸能を継承する人たちの発信を支えるサイトだが、発起人の藤間翔央{しょうおう}さんは真由喜の日本舞踊の先生の娘さんだ。だから、その縁で知った。昨日のイベントは、歌舞伎で使われる和楽器の紹介だった。

ちょっと早めに着いたら、正式に開始する前に体験できた。真由喜は小鼓から体験を始めて、大鼓や太鼓、篠笛などとも挑戦した。やはり、篠笛は難しいが、鼓は大変気に入ったようだ。そして、レクチャーのような場があった。福原鶴十郎という方が説明して、他の方も演奏したし、翔央氏も音楽に合わせて踊りを見せた。内容はとても面白かったし、体験する機会もあった。真由喜はまた鼓の体験ができたが、やはり皆の前にちょっと恥ずかしがっていた。例えば、鼓はバラバラにして運ぶことは紹介してもらって、その組み立てと調整のやり方も見せてもらった。そして、歌舞伎で物音を出す工夫も紹介された。ウグイスの音を出す笛や泣いている赤ちゃんの「赤子」という楽器も紹介された。

最初は、真由喜はすぐにでて、ゲームをしに行きたがっていたが、終わったら、さらに体験する機会があった交流会に参加することにして、さらに鼓に触れたりした。

主な対象は大人だったと思うので、心游舎の概念とちょっと違うが、他の子供もいたし、真由喜のように楽しんだようだ。次回のイベントの参加も検討するつもりだが、他の方もご興味を持っていれば、ぜひ。

お雛様の呪い

今日、真由喜のお雛様を飾った。事前に学校が終わったら飾ることにしたので、真由喜が友達にその計画を説明して、飾りの参加に誘った。結局、私と女の子三人で飾った。

もう10回目だから、問題なく飾れたが、後で真由喜にどの10回目のことを言ったら、急に息を呑んだ。

「10回目、20回目などには、お雛様の呪いがある!」

私は、この都市伝説を聞いたことはないので、解決策がすぐに思い浮かんだ。

「では、お祓いしましょうか。」

真由喜はすぐに賛同して、神棚の御幣を借りて、二人でお雛様の前で正座をした。私が祓詞を唱えていた間に、真由喜が御幣を振った。そして、呪いの恐れは払拭されたようだ。

「何になったのかな。」と真由喜。

10回目の呪いはありそうな言い伝えだが、今日まで聞いたことはなかった。

心游舎のクタニシールワークショップと東京大神宮

10日に真由喜と一緒に心游舎が東京大神宮で開催したクタニシールワークショップに参加しました。最初の予定は真由喜が参加して、私がただの付き添えにすることだったが、着いたらキットが余ったという話で、私も参加した。

このワークショップは、九谷焼の体験だった。湯飲みの焼き物はもう用意してもらったが、その九谷焼の装飾は私たちがした。このクタニシールは、石川県にある上出長右衛門釜の6代目の上出惠悟氏が発案したもので、シールを貼ってから釜で焼いてもらったら、本物の九谷焼のような色鮮やかな模様になる仕組みである。今回のワークショップで、一生懸命シールを貼ることだった。

私は、真由喜と一緒に行くために仕事をだいぶ休んだので、出発する直前真由喜が「いきたくない」と言い出した、ちょっとゾッとした。幸い、すぐに納得できたし、真由喜は前向きな態度に変わってくれた。そして、着いたら、挨拶などをちょっとつまらなさそうに臨んだが、ワークショップ自体が始まると、夢中になって、私の手伝いをちょっとだけもらいながら、自分なりの湯飲みを用意した。自分の名前をローマ字で書いたし、その日のために特別に用意していただいた心游舎のシンボルマークと東京大神宮ゆかりのスズランのシールを使った。湯飲みの出来上がりはやはり楽しみにしている。

そして、ワークショップの後で神社の参拝があった。ここで、真由喜はちょっと抵抗を見せた。「参拝は何回もやったし」とブツブツ言いながら参列したが、作法にきちんと従ってくれた。やはり、子供は必ず親の趣味を共有するとは限らないね。それは、心游舎のワークショップへの参加の制限にもなる。内容は真由喜にとって面白くなかったら、私も参加できない。(大人向けのワークショップは別だが。)

解散の後で、東京大神宮の境内を見たので、真由喜が縁結びおみくじをもらうことにした。参拝する列はすごかったので、パワースポットになった意味が実感できた。東京大神宮は明治初期の建立だから、御祭神は伊勢大神と造化三神と倭姫命になっている。造化三神の二人は高神産霊神と嘉神産霊神(東京大神宮の表記は違うけれども)ですので、その読み方に出る「むすび」は「縁結びの」に結びついている。その上、初めて神前結婚式を行なったのは、東京大神宮だから、その側面からも繋がりがある。このような現象は興味深いと思うが、ここで分析はできない。

ところで、ワークショップは、『神社新報』の記者が取材したが、私に挨拶して、ブログをご覧になってくださっていることを明らかにしてくれた。『神社新報』の記事についての感想をさらに気をつけなければならないだろう。

受験勉強

真由喜がその年になったので、私立中学校の受験について考え始めた。どうするかはまだ決まっていないが、今のところ本人はやる気満々だ。私もゆり子も私立中学校の入学試験などについて情報収集を始めたし、方針について話し合っている。

しかし、私はもう問題に会っている。私立中学校に入学するために、進学塾で3年間の受験勉強をしなければならないそうだ。そして、1年間他の習い事を完全にやめなければならないという。これに対して、強い不信感を持っている。

まずは、私はイギリスで私立中高一貫学校に通った。(制度は違うが、一応それに相当する。)入学試験を6つ受けた。しかし、イギリスでは塾の文化はないので、その準備は数ヶ月に数回過去問を解いて、試験の形に慣れていった。だから、不信感の原因の一つは私の経験との違いであるに違いない。だが、それだけではない。根拠もある。

試験はそもそも目標ではない。試験の機能は、実力を証明することにすぎない。だからこそ、試験の設問は難しい作業である。この前、論理力を測る試験を設問した場合、問題の形について苦労した。そして、試験の設問の工夫の一つは、受験勉強を無効とする努力であるべきだ。つまり、測ろうとする実力を持っていれば、特別に受験勉強をするかしないかによって、結果は変わらないのは理想である。もちろん、その理想を実現するのは無理だが、なるべく近づくようにすべきである。そうしないと、試験に対する不信感を招くしかない。試験の結果は受験勉強の量しか測らないと疑われるようになると、第三者は信頼しないし、内部の利用も慎重になる。

この点は、例えば資格試験の場合明らかだろう。試験のみで取得できる資格の場合、例えば行政書士はそうだが、資格が法律の理解を表明することは望ましい。資格はただ行政書士試験に合格する力しか表さなければ、資格には意味はほとんどない。入学試験の場合、反論はできる。受験生の立場から見れば、合格すれば学校や大学に入れるので、試験での合格のみは重要である、と。受験生の立場から見れば、そう言えるだろう。確かに、学力は足りなくて、入学してから後悔することもあるだろうが、そのような残念な結果は多くの状況に見えるので、入学試験の問題に特化すべきではないだろう。ただし、学校側から見ると、入学試験には大きな問題があることになる。求める学力を測らずに、親の経済力や塾の通った回数しか測らない。この状況を放置する学校の教育方針は疑わしい。

つまり、狭い意味でとる「受験勉強」は最大1ヶ月で認めるべきだと思う。そして、私立中高一貫学校がこのような受験勉強を肯定的に思うとは思えない。それは不信感の根拠の一つである。

もう一つの可能性がある。それは、入学試験の内容が公立小学校の教科の内容を超えることである。入学試験はその内容に対する能力を正しく測るとしても、その内容を学ぶために「受験勉強」が必要となる。しかし、このような入学試験であれば、子供の教育の可能性がさらに家族の経済力と結びついてしまう。影響を受けるのは避けられないことだが、最低限に抑えるのは教育の観点から見れば理想的なのではないか。だから、私立中高一貫学校がわざとこのような試験を設置することは、信じ難い。

さらに検討するが、結局社会的な問題があることになっても、真由喜の場合、その問題と事実として向き合って進路を決めるしかないだろう。