執筆と授業

先日、私にとって長らく望んだ機会が与えられた。TRPGの世界が分からない人はさっぱり分からないが、Dungeons&DragonsのForgotten Realmsと言う架空な世界を舞台とする作品を発売することができるようになった。私は、高校の時代、この世界が好きになって、今でも親しく思うし、長年この世界で自分の作りたい話は作れたらと思ったが、可能となるとは思いもしなかった。しかし、先日D&Dの出版社がDMGと言われる新しい計画を発表して、誰でも最新のD&Dのルールを使って、Forgotten Realmsを舞台とする作品をこの市場に売り出すことはできる。私はやりたいのは言うまでもないだろう。お金になるかどうかは分からないが、作品はいつもそうだ。この機会を得て、生かすべきなのではないかと言えよう。

一方、仕事は忙しい。暇はあまりない。もう一つの執筆の計画もあるし、それは今のところ順調に進んでいる。だから、また一つのプロジェクトを導入する余裕があるかどうかは、正直に言えば自分でも疑っている。

ここで、深い問題がある。授業の仕事は、私にとって楽しい仕事だ。そして、生徒さんにとって役に立っていると言っていただくが、レッスンが5年以上続くのは普通だから、本当にそう感じると信じても良かろう。その上、応じられないぐらいの依頼が最近入ってきた。(先にも述べたが、積極的な報告を一時的に止めた。)最後に、時給は5,000円。このぐらいな仕事があれば、そして妻子もいれば、この仕事を優先するのは当然だろう。やり甲斐があるし、収入ともつながるし、このような環境に置かれていることは、本当に恵まれていることだと痛感する。

それでも、作品を出すことはしたい。授業だけでは、何かが足りないような気がする。私の性格は、作品を残したい性格である。Ars Magicaはその一つだが、まだまだ作りたいことは多い。

だが、授業から時間を取れば、罪悪感があるので、授業がどんどん増え、執筆の時間が圧迫される。それは必ずしも悪いことであるとは限らないし、執筆は私のわがままであるとも言えるだろうが、やはり自分の中の葛藤になる。

この問題は簡単に解決できるはずはないので、地道で解決策を探りたいと思うが、とりあえず今回の機会を生かすために必要となる材料を入手して、下準備を始める。そして、経済的なことをきちんと記録して、長期的に続くことは許されるかどうか、検討する。

Ars Magicaの経験

既刊のArs Magicaの本の全て去年の大晦日を以て、Ars Magicaの監督役を退任した。14年間の大仕事で、左で5版のほぼ全ての本が見える。(最後の1冊は後ほど刊行される。)これは、重要な経験になったと感じる。

まず、Ars Magicaを監督することは、10代の夢だった。「Ars Magicaの監督だったら、こうしたいな」と思ったが、叶うとは思わなかった。アメリカの出版社だったし、私はイギリスで住んでいた。どうやって監督になれるかと思った。しかし、現実になった。実際に監督になったら、10代に想像したことは一つもしなかったのは言うまでもないだろうが、若い頃の夢の一つが叶ったのは私にとって大きい。

そして、作り出した本を誇りに思う。私の執筆は本当に限られているが、監督しましたので最終責任は私のものだし、本の概念と概要も決めたし、執筆の詳細にも大きく関与したので、私の想像が大きく反映されている。しかし、私一人だったら、Ars Magica5版は到底出来なかった。執筆の量は問題の一部だが、一部に過ぎない。根本的な理由は、他の作者が重要なアイデアを持ってきたことだ。複数の人のアイデアが一つの作品に融合することで、一人の想像力をうまく超える成果になった。

正直に言えば、最近Ars Magicaを遊びたくなくなったが、それはゲームの内容の問題ではない。むしろ、14年間監督として働いてきて、Ars Magicaがもう仕事になったので、リラックスして楽しむことが難しくなってきた。しばらくすると、またやりたくなるに決まっている。その芽生えはもう見えているし。そして、内容が多くて、見捨てたいところは一つもないので、どう遊ぶかも難しい問題だ。一部しか出来ないが、どこの一部を選ぶかは、決められない。ところで、それは退任した理由の一つだった。本の量が問題になってきている。他の人も同じように考えているようだ。一方、ヨーロッパの5版で描写されていないところはまだ残っているので、それを完成したい気持ちもあった。

では、軌道に戻ろう。また重要な経験は、人の管理業の経験だった。作者は十数人いたので、その軋轢を緩和したり、それぞれの作品の噛み合わせを確保したり、新しい人を育成したりすることは大事だった。その上、脅かす力は全くなかった。生計を立てるための仕事ではないので、趣味としてやった人ばかりだった。趣味としてやっている人を強制的に働かせるのは難しいといえよう。だから、作者の同意をいつも維持することは重要だったので、そのやり方も学んだ。もちろん、失敗はあったが、完全に作成を辞めた人は一人しかいなかったし、それは仕事についたばかりの10年以上前の話だ。技術を身に付ける前の時点だった。

それだけではない。厳しい批判への対応も学んだ。TRPGの経験は持っていない人は想像できないだろうが、ファンの劇的な批判、というより攻撃は業界で有名である。ファンを解雇したいという作者は度々いる。このような反応に応じる方法を学ぶのは貴重な機会だったし、将来に行かせることだと思う。

そして、Ars Magicaの作成で、私の作りたい作品を一つ世に出せた。その経験で、これから作りたい作品の像が明らかになったので、将来の土台にもなっている。

本当に感謝の気持ちでいっぱいである。

TRPGの多様性

最近、TRPGの業界(「業界」と言えるかな。大袈裟だろう。)で、多様性が大きな話題になっている。それは、TRPGの登場人物の多様性でもあるし、作者の多様性でもある。過去を見れば、異性愛者の白人の男性は圧倒的に多かったので、女性や白人ではない人や同性愛者などの性的マイノリティーを登場人物としても作者としても促すことになっている。

ただし、日本のTRPGの業界は、白人は圧倒的に少ない。イギリス人としてこの論争を見れば、アメリカの立場からしか考えられていないと感じざるを得ない。先日、そう言ったが、ちょっとした議論になった。私の最初の記事で、「多様性を増やしたければ、まずもうアメリカ人を雇うべきではない」と書いた。反発したアメリカ人もいたのは言うまでもないだろう。まぁ、確かに実現できる対策ではないし、できたとしても良策ではない。いいTRPGを作り出せるアメリカ人でまだ業界で働いていない人もいるからだ。

では、現実的な対策はあるだろう。

TRPGの商品は、ゲームに分けられている。私が今でも管理するArs Magicaはその一つだが、一番有名なのは、Dungeons & DragonsかPathfinderだろう。このゲームは本を一冊で終わる作品ではない。小説のシリーズが20冊に登ると長いと思われるが、TRPGが40冊を超えても、特に多くはない。多様性の単位として、このゲームを取りたい。そして、重要な多様性は、現世界の多様性である。ゲームの架空な世界は多様であるかどうかは、その世界の概念による。重要なのは、多様な世界があることだ。その世界は一つ一つ多様であることではない。

方針として、ゲームの過半数は一つのカテゴリーの人に作成されないように工夫することを掲げたいのだ。人数より、作成した分で測る。

まず、例外を掲げる。ゲームの全ては一人か二人の作者によって作られたら、多様性は問わない。作者の個性ははっきり反映されるはずだから、業界の多様性に貢献する。3、4人のチームでも大丈夫だろうが、4人を越えれば過半数を避ける基準を導入するべきだと思う。

では、カテゴリーは具体的に何だろう。まずは、国籍。ここで、「国籍」は法律上の国籍ではなく、作者の国の文化を指している。つまり、2歳にアメリカに引っ越したインド人は、アメリカ人になる。多くの場合、法律上の国籍と同じことになるが、例外はもちろんある。(私も例外になるので、この例外の存在に敏感だ。)文化は二つある人は、少ない方に数えても良い。例えば、私はイギリス人として、それとも日本人として数えられる。両方の立場を持っているからだし、複数の文化を体験した人の参加を促進するべきであるからでもある。この場合は、もしかして出版社とどう国籍の作者が過半数にならないように気をつけることになる。そして、例えば日本についてのゲームを書いたら、日本人が過半数にならないように気をつける。もちろん、日本のことをよく知っている人に限らなければならないが、外国の立場から日本について書く人を雇うべきだ。目的は多様性であるからだ。

国籍をまず確保したら、他のカテゴリーは自国で重要なカテゴリーとする。性別はほとんどの国では重要であるので、男女のバランスは必要だ。そして、性的マイノリティーの人は、第3カテゴリーとして捉えた方が良かろう。三つがあれば、過半数を避けることがより簡単になる。人種も重要である場合がある。アメリカの場合、極めて重要である。カテゴリーは白人、黒人、アメリカ原住民、ラティノ、アジア人から始まるだろう。イギリスでは、白人、ハーフ、黒人、アジア人から始まる。日本の場合、日本人、ハーフ、韓国・朝鮮人、中国人、フィリピン人、欧米人などになるかもしれない。もちろん、カテゴリーからはみ出る人もいるが、そのような人も過半数にならないように気をつけるべきだ。国によって、宗教も重要になるだろう。スリランカでは、仏教とヒンドゥー教はそうかもしれない。

もちろん、一人の作者は複数のカテゴリーに入る。それは当然なことで、いいことである。そして、一つの本を考えれば、多様性はそれほど重要ではない。特に、短い電子版しかない本であれば、作者も一人であることは多いので、多様性は無理だ。だからこそゲームを単位として考える。本ごとに作者は一人であるとしても、本を80冊出版すれば、多様性を目指せる。

これは簡単なことではない。実は、Ars Magicaは国籍の多様性に達していると思うが、それは偶然だった。一方、作者の大半は白人の男性だから、他の多様性に失敗している。そして、平等を保障する法律で、「女性を雇いたい」とは言えない場合は多い。平等を設立するために不平等な行為は必要となるのは皮肉的なのだが、事実でもある。だから正式に言わないが、少ないカテゴリーに入る人を積極的に探して、チームに入れる。方法の問題は、さらに考えたいと思うのだが、今のところこのような目的は良いのではないかと思っている。

創造と枠

創造は難しい。

このブログの投稿もある意味で創造であるが、それはもう難しくない。9年間以上練習してきたので、すぐに書けるようになった。話題に思いつくのは難しいので、メモをする。書きたいことがあれば、メモする。今のところ、27が並んでいる。これはその1つではないので、まだまだある。これは、9年間で学んだ戦略だね。

そして、教える時も創造力も必要だ。確かに、適切な英語の言葉を出すなどのことだから、深い創造ではない。だから、そもそもそれほど難しくない。それに、それも10年間以上練習してきた。それはできる。

TRPGの新しいルールなども、創造だが、比較的に楽にできる。実は、TRPGは、創造力や想像力を発揮するための理想的な環境を作り上げると思う。ルールは枠を提供して、その枠に当て嵌めることについて考えるように導く。しかし、その枠の中は、自由である。枠をでない限り、何でもできる。そして、TRPGはただ書いたものだから、枠に当て嵌められないアイデアがあれば、枠を調整することはできる。ちょっとずつそうすれば、結局大きく変わることはできる。Ars Magicaの最後の状態は、出発点と大きく違うが、一歩は小さかった。

その創造する技能は別な分野でも使えるとしたら、TRPGを義務教育の必須科目にするべきだ。そのような想像力、創造力はいつでもどこでも役に立つからだ。ただし、技能は別な分野で使えるかどうかは不明だ。

それに、一躍しなければならない場合、難しい。枠を一部ずつ変えることで、目的地にたどり着けない。これはKannagaraの問題だ。既存のTRPGは、Kannagaraでやりたいことはやらせない。できない。Ars Magicaで10年間以上この目的に近づけようとしたが、結局できなかった。

だから、真新しい枠を創造するしかない。それはやはり難しい。結果は予想の通りになるかは、不明。確認できる状態までさえ進めることも、難しい。進んでいると感じるが、道程はまだまだ長いようだ。そして、目的に達成しても、その結果は他の人にとって役に立つか、好まれるか、わからない。時間の無駄なのかもしれない。枠内で働けば、単純に時間の無駄にならないことを確信できる。一方、無駄になるかどうかは、しない限り知り得ない。予想できたら、もう結果が分かる。

もちろん、この現象はTRPGの些細な分野には限らない。人生全般はそうだ。枠や模範に沿って進めば、何かできるのは確信できるか、弊害を打ち壊そうとすれば、それとも根本的な改善を目指せば、結果は保障されていない。それは、この世の事実だ。

とりあえず、TRPGで実現する。