能力主義を脱却

ちょっと前に、このブログで能力主義を批判した。仕事をいつも能力は高水準で、仕事の内容に合う人に与えたら、能力の少ない人は出世できなくなる。能力は少ない人は、少ない能力を選んだわけではないので、この制度でその人の自由を必要以上に制限する。能力は少ないので、事実問題としてできないことは多いだろうが、社会の構造がさらに活動を禁じることはよくないと私は思う。障害者の対応と同じ感覚である。障害者は、できないことがある。例えば、足が動かない人は、バレエはできない。しかし、駅の入り口には階段は多ければ、電車にも乗れないが、それは障害のせいではなく、社会の配慮不足のせいである。能力は少ない人は、社会の構成の影響で、できないことが必要以上に増えると感じる。

では、どうすれば良いのだろうか。前に、宝くじで富裕層に入るチャンスを与えるべきであると言ったが、それは僅かの人を助けるし、買いすぎで生活が困るようになる問題もある。もう少し一般的な解決策は必要だと思わざるを得ない。つまり、仕事で能力なしに社会的な地位を上げる道を開くべきなのではないかと思ってきた。

ここで、問題が生じる。まず、仕事をするために、ある程度の能力は必要である。これを認めざるを得ない。ある仕事ができない人に与えてはいけない。例えば、英語も日本語もできない人は、日本語から英語への翻訳の仕事を担えない。つまり、仕事の必要条件を定めることは回避できない。一方、多くの仕事で、その条件はかなりゆるい。中卒であれば最低限で出来る仕事は多い。管理職もそうだ。上手にできないだろうし、会社の経営を司ることもできないだろうが、6人を普通の仕事で管理できるのではないか。

そして、仕事によって、職員の能力によって結果が大きく違う。しかし、そうではない場合も多い。特に、マニュアルを持って、職員の裁量に何も委ねない仕事はそうだ。店員や工場での仕事は明らかな例になる。その上、違いは確かにあるが、その違いは客にとって大したことではない場合もある。最低限の能力を持てば、能力差はそれほど大きくないだろう。

だから、一回目の提案として、簡単な規則を掲げる。求人の場合、仕事の必要条件を定めることはできる。それは、本当に必要である条件でないと、訴訟する権利を与えて、判決はそうであれば、不要な条件を撤廃しなければならない。失業は人生にとって大変だから、現職の人を解雇させないが、それからの求人で妥当な条件を定めなければならない。悪質の場合、経営者に罰則を科す。そして、必要条件を満たす応募者から、職人を抽選で選ぶ。抽選の施行は、第三者に任せる義務を課したほうが良いだろう。

これで、様々な偏見の影響がなくなる。男女差別も人種差別もなくなる。

もちろん、ここで経営側の自由が縛られる。しかし、大手企業や中ぐらいの企業では、影響力は大きいので、他の人の自由を保障するために、企業の自由を制限しなければならない。小企業や零細企業は規則の対象外とするべきだろう。自分のイメージの通りにやりたかったら、誰でも立ち上げられる小規模な企業を経営するべきだろう。小企業者は、製造業で20人以下、商業やサービス業で5人以下であるので、友人と組んだら、自分で立ち上げられる。では、これは別な話であるので、後日にもう少し詳しく論じる。

少数者と代表者会議

少数者の実質的な自由と快適な生活を確保するために、話し合うと良いと先日述べたが、その方法を考えなければならない。選挙へ影響は及ぼせない少数者の声が聞こえなくなる恐れがあるので、なんらかの対策をとるべきである。良い対策として、川崎市外国人市民代表者会議のような施設を掲げたいのである。

この代表者会議には複数の重要な要素がある。

まず、拘束力はないことだ。少数者には、多数者を拘束する権力を与えてはいけない。それは民主主義の基本理念の一つである。拘束力はないと、多数者が少数者の声を無視する恐れがある。その場合、人権で過酷な弾圧を防ぐべきだが、それは限界だ。多数者には少数者の意見に従わない権利はなければ、少数者には支配力が与えられる。

一方、行政などには、その代表者会議の提言を公的に受け止めて、尊重して、実現に向けて積極的に動く義務を課すべきである。つまり、「これはできない」と言えるが、相当な理由を明記する義務は重要である。そして、代表者会議を簡単に廃止することはできないような仕組みも重要である。これで、権力者には不利であっても、少数者の声に耳を傾ける。それだけで、状況の改善は期待できる。

そして、代表者会議の審議や提言を公表するべきである。代表者会議の目的は話し合いだから、相手は行政だけではなく、他の市民でもある。誰でも傍聴できれば、陰謀である疑いが払拭されるが、行政が提言などを無視しようとすれば、他の市民が少数者の味方に回って、訴えることは多いだろう。特に少数者の問題を重視しなくても、法律で定まった義務を果たさない行政の説明責任を強調することはある。その上、一般市民が少数者の問題を把握すれば、それだけで少数者の生活が楽になることもある。

公開しても、代表者は当事者であることも重要である。少数者の声を聞くために、少数者本人を代表者会議の代表者にさせるべきである。その上、代表者が自主的に会議の運営を決めたり、審議するテーマを選んだりしたほうが良い。

つまり、川崎市外国人市民代表者会議の仕組みに似ている仕組みは良いと思う。その上、市のレベルで設立すれば良いのではないかとも思う。国のレベルで、審議できる人数の会議で全国の状況を把握するのは極めて難しいし、それぞれ地方の会議から意見を取り上げて、国に働きかけることも可能だ。

具体的に考えれば、「少数者市民代表者会議」を設立すれば、だれを参加したほうが良いのだろう。

まずは、ハーフや帰化した人が浮上する。外国人市民ではないが、重要な意味で少数者である。そして、川崎市の人権イニシアチブでは「性的マイノリティー」が指摘されるが、同性愛者や性同一性障害者などの性的少数者を参加させたら良い。次は、他の障害者もそうだ。体の不自由な方も感覚障害がある方も参加してもらうと良い。さらに考えれば、宗教的に少数者である人も該当するだろう。キリスト教徒やイスラム教徒、新宗教の信者には独特な問題があると思えるので、その声も聞こえるようにするべきだと思う。そして、部落民と言われた人にも偏見などの独特な問題があったと聞いたことがあるが、詳しくない。会議の構造を決める前に、有識者を集めて、適切な構成を審議しなければならない。

これで代表者会議の限度が見えてくる。指定した少数者しか代表できない問題だ。だから、他の少数者を守るための人権は重要だし、代表者会議で「その他」の少数者を入れると良い。

このような仕組みがあれば、権利で解決できない問題と挑戦できて、住民の生活をより快適にできると思う。多数者も、社会に対して恨みを抱く少数者は少ないことで直接な利益を得て、そして少数者になっても声は無視されないことを確信して、社会の一員である認識が高まるだろう。

少数者と人権

少数者が弾圧されないように、一つの手段は人権である。人権は極めて重要だと思うし、尊重するべきであるとも強調したい。

人権の重要な役割の一つは、少数者を守ることである。つまり、人権は、民主主義で多数派がある行動を選んでも、実施を禁止する。例えば、イスラム教を禁じるような法律が国会で立法されたら、憲法で定めた人権の違反として、最高裁判所が直ちに無効とする。この点は忘れてはならない。人権は、少数派を多数派から守るために存在するので、ちゃんとした民主主義で多数派が選んだ道を塞ぐことはある。人権は、民主的に定められた規則であるとしても、定まったら多数決より優先されるべきだ。

もしかしてさらに重要な役割は、国民を政府から守る役割だろう。人権は、政府がしてはいけないことを定めるので、政府がそれをしようとすれば、止められる。

人権に拘束力を与えるために、国家の法律に指定しないといけない。しかし、政府と多数派の行動を拘束する目的を持っているので、政府も多数派も気軽に変えられない法律に定めないと意味は全くない。だからこそ、人権を憲法で定めて、憲法改正の手続きを普通の立法手続きよりハードルがかなり高い制度にするべきである。

しかし、人権にも限度がある。人権は、行動を禁じる規則とするべきだと私は思う。なぜなら、行動を止めるのは、誰でもいつでもできることであるからだ。人権で「言論の自由を縛ってはならない」とあれば、政府は言論の自由を縛らない。財政危機が如何に緊迫になっても、言論の自由を侵すことは避けられる。同じように、「家族を破壊してはならない」としたら、力が如何に微弱になっても、しないことはできる。だから、絶対的な規則として設定しても大丈夫である。このような人権は、少数派の保護や一般国民の自由にとって、基礎的な存在である。なくてはならない。それでも、すべてではない。

このブログに何回も述べたか、実質的な自由は必要だ。少数者もそうだ。実質的な自由のために、他人の妨害を防ぐのは不可欠であるが、十分ではない。障害者の場合、これは浮き彫りになる。足が不自由な人は、富士山の山頂まで登ることは禁じられていない。しかし、禁止令はないことだけで登れるわけではない。これは顕著な例だが、一般に同じである。周りの人の協力を得ない限り、何もできないのは人間の状態である。ただし、この協力を強制的に要求することはできない。まず、必要な力はないこともある。そして、限度がある資源は、誰に使うべきを決めるのは、社会の役割の一つである。絶対的な人権で解決しようとすれば、問題がさらに深まるだろう。実質的な自由の確保は、より柔軟な過程で実現するべきだと思う。

英語で諺がある。「金槌しか持たなければ、何でも釘に見える。」人権もそのような傾向があるのではないか。人権は、ある重要な問題の解決策であるので、その周辺にある全ての問題の解決策とする人はいるような印象を受けている。そうではない。

明らかな例を挙げよう。満足できる性生活は、人間の精神的な幸せにとってとても重要であると言われる。信じ難くない。だから、他の人へ被害を与えない性生活を禁じるべきではないと活動家が主張する。その通りだと思う。同性愛者の性生活を禁じるべきではない。しかし、禁じなくても、同性愛者はとにかく、異性愛者は相手を必ずしも見つけるとは限らない。では、満足する性生活は、人権にしようか。それは明らかに大問題である。なぜなら、ある人が欲しい相手を強制的に性交させることとつながるからである。性交が欲しい人の欲望を否定することを人権侵害と看做したら、そうなる。だから、人権は、この問題の一部しか解決できない。

他の問題は、話し合って解決する。(色欲について気軽に話し合えないこと自体は社会的な問題だろうが、それは例に過ぎない。)民主主義は、その話し合いを可能にする手法の一つである。ここで、少数者は民主主義へ影響力は及ぼせない問題がまた浮上する。次回、その解決策について論じたい。

少数者と民主主義

社会には少数者、いわゆる「マイノリティー」、が存在する。日本の場合、外国人はその例だが、同性愛者も例になる。アメリカでの言葉遣いでは、「マイノリティー」には女性が含まれる場合は多いが、ここで、数学的に少数派である少数者について論じたいと思う。

民主主義で、少数者は問題になる。なぜなら、民主主義で多数決で多くのことを決めるからだ。多数決で決めたら、少数者は勝つことはできない。もちろん、ある意味で少数者は極めて多い。日本での日本人男性でも、半数をわずかに超える人でも、選挙で単独で勝つのは難しい。しかし、そのぐらいの人数で、選挙の結果へ影響を及ぼす。政治家は、日本人の男性の要望を完全に無視することはできないし、男性一般に明らかに不利である政策は通らないだろう。女性も同じだから、ここで女性を少数者として扱わない。(アメリカでは、女性のマイノリティーの概念に含める傾向は強いが、それは社会的な立場から考える場合である。ここは、別な視点から考えているので、結果は違う。)ここで、「少数者」は、選挙の影響にはっきりした影響を及ぼせない人数にとどまる人たちを指す。

そう考えれば、アメリカでの黒人も少数者に当たらない。2割ぐらいだから、選挙に影響を及ぼす。アメリカでそのような事実は前から認められていたので、黒人が投票しないように工夫したことは多い。今でも続いていると強調する活動家もいるが、少なくとも30年、40年前には事実だった。だからこそ、投票できるような仕組みと一票の価値を平等とするのは重要だ。しかし、それは少数者の問題ではない。少数者は、投票できるとしても、そして一票の価値は平等であるとしても、影響力はない住民である。

日本の場合、在日外国人はその例の一つである。2%程度であるので、仮に参政権を与えても、選挙に影響を与えられると思えない。しかし、日本人の間にも同じような状況にある人もいる。外国人と関連するのは、ハーフだろう。日本人だが、割合は非常に少ない。帰化した人もそうだ。外国とのつながり以外の枠組みを考えれば、障害者が浮上するだろう。そして、日本では、キリスト教徒やイスラム教徒も2%にも満たない。同性愛者の割合は、定義と調査によって異なるが、一般に5%未満であるので、それも同じである。

問題は、この少数者のニーズなどが無視される恐れがあるし、弾圧される恐れさえある。日本の国民が一般的に障害者を弾圧することにしたら、障害者の票で破れない。(ナチス・ドイツではそのような弾圧はあったので、ありえないと思えない。)だから、民主主義な国柄で、少数者の問題を構造的に解決しなければならない。次回、その解決策について論じたいのである。