最低賃金

先の「いい母プレッシャー」の投稿で、週20時間で時給の2000円程度の仕事は少ないことに触れたが、それは非正規労働者の労働条件の問題を示唆する。パートの賃金は低すぎると言えるのではないか。

賃金の水準は、二つの方向から見える。まず、経営側の方向から見ると、企業運営は維持できる人件費を越えずに良い人材を確保できるレベルは望ましい。確保できれば、低ければ低いほど良い。労働者側から、生計が立てるほどの賃金は必要だが、その基準をクリアすれば高ければ高いほど良い。もちろん、商法は人間だから、相手の立場から考えて、賃金の調整に同意することは珍しく無い。それでも純粋の立場は、真正面で衝突する。

そして、交渉力を考えれば、労働者側は圧倒的に弱い。労働者は働かないと、餓死する。経営側は、人手不足であってもしばらくの間商売は続けられる。生活には打撃はない。この不均等な状態の改善策の一つは労働組合だが、もう一つは最低賃金の法律である。労働者の交渉力はいかに低くても、少なくとも最低賃金の収入を得ることを保証する。

しかし、最低賃金の水準を定めるのは難しい。欧米では、最近「Living Wage」(生活のできる賃金)の運動があって、その水準が15ドルや10ポンドになる。円に換算すれば、時給は1800円ぐらいになる。現行の最低賃金の2倍ぐらいである。最低賃金はこのレベルだったら、親の二人は両方20時間労働して、金稼ぎと子育てを平等に分け合えるようになる。その上、最低賃金で週40時間働く人の年収は360万円ぐらいになる。それで、貧困問題と格差問題が一気に解消されると思うだろうが、もちろんそれほど簡単ではない。

現在の経営の多くは、賃金をその水準まで引き上げたら破綻するはずだ。人件費が1.5倍になるか、場合によってほぼ2倍になるので、経費の急増になるが、売り上げが上がらない。もちろん、不適切な莫大利益を得ている企業は維持できるが、そのような企業は少ない。

「生活賃金」と名付けよう。(私は、イギリス生まれだから、「リビングウェージ」のようなカタカナ語は避けたい。日本語なら、日本語にしてほしい。)生活賃金を段階的に導入したら、状況はどう変わるのだろう。二つの変更は予想できる。

まず、低所得者の収入が1.5倍から2倍に増える。それは単純に最低賃金から生活賃金に変わることだ。

そして、値段が上がる。この賃金を賄うために、それしかない。利益が減少することも見込まれるが、値上げはさけられない。しかし、値上げ幅を考察すれば、1.25倍以下になるのではないか。人件費は売り上げの30%程度であるのは普通だと言われが、小売業はちょっと高いそうだ。50%としたら、そしてその全ては賃金が2倍となる最低賃金の従業員であるとすれば、賃金の増加は売上高の50%になる。これは最高水準である。ほとんどの経営で、最低賃金ではない人も多いし、人件費の割合はそもそも低い。

値上げは50%であっても、低所得者からみれば有利である。自分の収入が2倍になったので、買える量は33%増えた。もちろん、収入が変わらない人は、買える量が33%減る。しかし、貧困には陥らない。低所得者より収入はまだ高いからだ。

つまり、最低賃金は低すぎたら、貧乏な人が事実上中間層に援助を捧げる。これは倫理的には良くない。ここで考えているのは、週40時間を働く労働者であることは念頭に置かなければならない。この低所得者は努力している、苦労している人たちである。そのような人が経済的な余裕を持つ人に助成金を間接的に捧げるわけにはいかないだろう。生活賃金の導入によって、そのような現象が解消され、社会の格差も縮む。

しかし、変更はそれほど単純であるはずはない。社会に大きな変更を齎せば、予測できない変更も発生するのは決まっている。だから、生活賃金を一気に導入しないほうが良い。段階的に導入すれば、社会が調整できる。だから、例えば最低賃金を900円から1800円に上げようとすれば、毎年100円で引き上げて、9年間で1800円になる。9年間は、経営にとって予想できない期間だから、調整はできない企業は潰れても良い。そもそも力はなかった。ほとんどの企業は、対応できると思える。(現行の最低賃金は680円から始まるので、11年間をかけて引き上げても良い。)

こうすれば、より公平な社会になるので、このような政策は実施してもらいたい。

償い方

犯罪の被害を償うことは、必ずしも簡単ではない。

もちろん、簡単な場合もある。例えば、銀行員が口座からお金をこっそりとることとしよう。持ち主が気付く前に行為が発覚されたら、お金を返すことによって償える。それ以外の被害はない。しかし、これほど簡単な場合は非常に少ない。被害者が犯罪に気づけば、その心理的な苦しみにも配慮しなければならないが、それをどうやって償うべきかは明らかではない。

すぐに計算できる範囲について考えよう。例えば、旅行先で財布が盗まれる場合。その場合、まずは財布と財布の内容を返すこと。できなかったら、内容を新しく代替する。そして、旅行が台無しになったので、旅行費を返す。直接の費用だけではなく、旅行者の無駄になった時間を一時間数千円の時給で払うべきだろう。心理的な被害を別に考えなければならないが、ただのすりで旅行が完全に台無しになることは少ないので、同規模の新しい旅行をもらうことで精神的な被害も償ってもらう場合もあるだろう。

このような例は簡単な方である。お金で被害を償えるからである。実は、負傷もこのカテゴリーに入ることもあるだろう。傷自体はそれほどひどくなかったら、治療費、失った時間、そして失った活動の費用を納めたら、被害の償いになるだろう。ただし、傷があれば、精神的な被害が重くなる場合は多いので、この物理的な計算は足りない。

精神的な被害は、お金で償えない場合もある。同じように、掛け替えの無いものもある。子供の命は一番顕著な例だろうが、恋人からもらった手作りの茶碗もそうである。重要度がはるかに違うが、どちらでもお金に代替できない。償いの概念には制限があると認めなければならない。子供を殺した人を養子とさせるのは加害者の罰にはならない。(聖書の旧約にはレイプの罰として、被害者に結婚しなければならないということは書いてあるが、被害者の苦しみを増すばかりの方針なのではないか。)

そのため、償いをお金でできる範囲に止まらせなければならないだろう。そうではない。すぐに思い浮かぶのは、公表された謝罪などである。特に、名誉毀損などの場合、お金より謝罪の方が被害を少なくするだろう。加害者が真摯に謝罪することは強制的にさせられないが、形だけでも良い場合も少なくないと思う。すぐに思い浮かばないケースもあるはずだから、償いの範囲を事前に制限しないほうが良いだろう。

別な意味でもそうだ。例えば、飲酒運転の事故で被害者が一生介護を必要とする状態になることにしよう。その場合、加害者にはその介護費をなるべく賄う義務を課してもよいと思う。数十年にわたって数千万円に上るだろうが、それでもよし。被害者の苦しみやニーズは絶えないので、加害者の義務も絶えない。それに、飲酒運転でそのようなことが発生する可能性は、だれでも簡単に予想できるので、加害者は公平性を認めなければならない。一方、予想できない場合もある。例えば、ある犯罪者が人の財布を盗んだとしよう。しかし、その財布の中に、重要な鍵が入っていた。その鍵は失われたため、数十人が大きな怪我を負傷した。一生介護が必要な人は、十人以上いる。このような予想外の場合、裁判所で償う義務を軽減することを許したほうが良いだろう。軽減しても、かなり重い負担になるので、その恐れが犯罪を避ける動機になるはずだ。

このように償いで被害者の被害をなるべく抹消したり、刑務所での教育で加害者の問題を解決すれば、犯罪の抑制も再発防止もできるかと思う。と同時に、国家の倫理を勝手に課することは少なくなるので、自由を尊重する制度でもある。

罪の償い

罪が犯されたら、加害者と異なる被害者がいる。被害者はいないと、罪と見なすべきではない。被害者はいない行動は、自由の範囲に入るからだ。被害者は、その被害によって自分の人生の計画を乱れさせられた。ある人が作品の海賊版を入手したら、その乱れは小さいが、存在する。旅行先で財布が盗まれたら、人生全体への影響は小さいものの、楽しみにしていた旅行が台無しになるだろう。飲酒運転の事故で命は奪われたら、人生の計画も当然白紙に戻ってしまう。この乱れは被害者の責任ではないので、なるべく自由を復活するべきだと思う。

その責任を背負うのは、加害者であるのではないか。加害者の行為の結果は予想を超えても、行為を行ったのは加害者なので、予想できなかった責任も背負うべきであると言えるだろう。場合によって、その予想外の結果で加害者もある意味被害者になることも考えられるが、そのような問題を後回しにして、ここで普通の場合を論じたいと思う。

加害者が被害を償うことは、ほとんどの人にとっては当たり前だろう。神道の古典にも見えるし、ヨーロッパの古代の法律にも見える。しかし、現行の刑法では、そのことは重視されていない。罰金などが国家に納められ、刑務所での活動が被害者の利益にはならない。その結果、被害者の賠償を見逃すか、保険に任すか、民法に任すか、という傾向は強い。

自由の立場から考えれば、この傾向を直すべきであろう。なぜなら、加害者の自由を制限するのは良くないので、その制限には強い理由がなくてはならない。先日に述べたように、その理由の一部は犯罪者への利益であるが、そのような方針に矛盾を感じる人は少なくないだろう。犯罪者、即ち加害者に利益をもたらすのは、如何なものか、と。もう一つは、犯罪が起こした被害者の損害を償うことだ。これに対して、違和感はないだろう。そして、構造的にも良い。他人の被害を無視できれば、自分のやりたいことの費用を別人に転嫁することが多くなって、社会的な問題になる。汚染はその例の一つである。廃棄物を排出ことには費用は少ないし、被害のほんとんどは企業ではなく、周辺住民のものになる。犯罪にも同じような様子がある。犯罪者が自分の欲しいものを入手するが、その費用は被害者に課する。そのような行動が許されたら、社会的な問題になるに違いない。

つまり、犯罪者に償う義務を課しても、それはただ自分の行為の費用を自分で負担することに過ぎない。国家が勝手に背負わせる罰ではなく、自分のやりたいことの一部に過ぎない。

では、具体的に実現すれば、どうなるのだろう。その問題は、後日に取り扱いたいのだ。

刑務所の役割

人間は人間だから、なんの社会でも犯罪が発生する。犯罪を抑制したり、一般の人を犯罪者から守ったりするのは国家の重要な役割だが、自由を重んじたら、問題がある。それは、国家の勝手な基準によって人に罰を与える根拠は何だろうという根本的な問題である。

この問題には簡単な解決はないと思うが、それでも国家が犯罪に向き合わないとダメだ。だから、どうしたらよいかを考えるべきだ。

犯罪者が周りの人の生活などを脅かす場合、刑務所で拘束しなければならないだろう。殺人者はもちろん、相次いで窃盗を犯す人もそうだ。しかし、これで二つの重要な条件を覚えなければならない。

一つは、国家の善悪の判断は必ずしも正しいとは限らないこと。明らかな例は宗教の歴史である。日本でキリスト教を禁じた時代もあったし、ヨーロッパでイスラム教を禁じた時代もあった。どちらの宗教は正しいかを置いておいて、宗教の実践を許すべきであるのは今の常識であるので、吉利支丹であることを理由に人に罰を科すことは国家の誤りだったと思わざるを得ない。殺人は一般的に許すべきではないことは揺るぎないだろうが、許すべき場合はたまにある可能性を排除するのは難しいので、明白な殺人者でも罰を科すべきではない場合さえあるかもしれない。

もう一つは、警察や検察が間違えて、もしくは捏造して、冤罪を犯すこともある。つまり、罰に遭う人は必ずしも真犯人であるとは限らない。

これを踏まえて、最悪の場合でも弁明できる罰を科するべきだと思う。だから死刑に絶対反対する。間違えて人を殺したら、巻き返すことはできない。

しかし、警察や検察の取り調べの上、裁判所で有罪と言い渡された人の自由を、ある程度縛っても良いだろう。具体的に、その人を良い方向に強制的に導くことはできるだろう。

普段は、社会は一人の人間に自分に悪いことを禁じてはいけない。自分の人生をダメにしたかったら、許すべきだ。しかし、犯罪者であれば、良い方に強制的にさせても構わないだろう。それは、犯罪者のためのことだ。

簡単なことから始まったら、刑務所で栄養が良い食べ物を食べさせたり、適切な運動をさせたり、麻薬はもちろん、タバコやお酒も禁じることで、健康になるようにする。その上、識字などの問題があれば、勉強させて直す。そして、犯罪を起こさずに生活が立てられる技能も教えるのは良い。最後に、他の人との関係が結ぶような心理的な教育も強制的にさせること。つまり、刑務所から出たら、社会に貢献できる人間にさせる。ほとんどの犯罪者にはそのような問題があって、犯罪を犯すそうだから、このように立て直させる行動には効果が来たできると思う。

もちろん、このような形であれば、刑務所が魅力的になる恐れがある。そのために、裁判官は刑務所を必要とする人のみを刑務所に収容させる方針が良い。他の犯罪者をどう扱うべきか、後日に考えたいと思う。