土俵の穢れ

最近、京都の舞鶴市での相撲興行で話題になった事件があった。土俵の上で挨拶にたった舞鶴市長は、途中で急に倒れてしまった。それを見て、看護師の資格持つと言われる女性観客が市長に駆け付け、救急看護を施した。それで、アナウンスで「女性の方、土俵から降りてください」ということが数回流れた。もちろん、「男尊女卑の思想の表れだ」との批判が飛び交った。

『神社新報』では、その批判に反発する記事が載っていた。差別ではないと反論する。

なぜかとういうと、相撲はただの競技ではなくて、神事であるからだそうだ。相撲の前に土俵で降神の儀が斎行されるし、力士がお塩を投げることは祓えの儀式でもある。神事が行う場所、即ち土俵は、清浄でなければならない。伊勢の神宮と賀茂神社の女性の斎王の歴史を考えれば、女性自体は穢れた存在ではないのは明らかだが、神道では、古より血の穢れが忌された。だから、女性が土俵に上ったら、斎場に穢れを持つので、祟られる恐れがある、との内容だった。

まずもって、女性自体ではなくて、血の穢れであれば、つまり生理中であろうとのことになる。女性には生理中である可能性があるから斎場から排除するということは、差別の一種である。女性=生理ではない。生理の出血は一ヶ月の数日に過ぎないそうだ。(体験はないけれども。)童女も更年期を過ぎた女性も、生理にならない。他の女性でも、過半数は生理中ではない。区別しにくい重視することを測るために、区別し易い要素を代用することは、差別の一種である。例えば、日本語能力を測るのは難しいが、肌色は明白であるので、白人などの日本語能力は低いので日本語で開催されるイベントに入らせないとすれば、それは差別の一種だ。同じように、女性なら生理中であるかもしれないので、生理中であるかどうかを確認するより、女性を一概に禁じるのは、同じような差別に当たる。

転じて、男性にも出血があることも感がなければならない。例えば、私は子供の頃からアトピーに悩まされてきたが、酷くなると皮膚がひび割れして、血が出る。その場合、土俵に上がらないほうがいいだろう。しかし、そのようなことを全ての男性に確認しなければ、それも差別になる。

だから、差別がある印象を払拭することは難しい。しかし、より根本的な問題もある。

穢れの元は、地に限られるわけではない。死も穢れになるが、それは出血が伴うかどうかを問わずに言える。同じように、古代の六色禁忌の一つは、「病を問い」であった。つまり、病気も穢れの一種である。穢れの概念を理解すれば、これは明らかである。

そう考えれば、舞鶴市市長が病気で土俵の上で倒れた瞬間、土俵はもう穢れていた。神事に相応しく空間になった。その状況下、女性が上がっても、変わりはありません。祓えをやり直さない限り、神事を執り行うべきではない。

だから、「女性の方、土俵から降りてください」というのは、穢れを意識している証拠にはならない。むしろ、ただ「女性はここにいるべきではない」との考えにすぎないと思わせる発言になる。それも、差別的な考え方に見える。

『神社と政治』

この本は、公共哲学者である小林正弥先生が著した書物で、初詣の神社で改憲署名運動が行われたことから発端した計画だそうだ。私は、英語の神道についてのエッセイで靖国神社について書くことになったので、その背景を調べるために買って読んだ。

とても興味深かった。基本的な立場は公と私の間の「公共」を主張することであるといえよう。この公共は、一般に提供されているが、国家などと深く関わる「公」にならない。結論から言えば、神社神道の理想的な像は、この公共なのではないかという提案である。

この中で、私が前から考えたことに合致するところは少なくなかったので、それをさらに体系的にされたり、深めたりする本の内容は刺激的で、考えさせられた。

伊勢の神宮の式年遷宮を例として考えよう。この神事はもう公ではない。戦後以来、国家からの支援は一切ない。それでも、550億円規模で行われた。それは、国民からの浄財を集められたからだ。これは、私的なものではないが、「公」というのも難しいので、「公共」と言えよう。そして、この形で式年遷宮を進めるのは理想的なのではないかともほのめかす。私は、そうだと思う。国家と繋げたら、神宮や神道に反対する人からも税金を徴収するので、許し難い行為になる。一方、現行の制度では、賛同する人からの浄財だから、反対する根拠がなくなるし、宗教の自由が保護される限り、政治がいかに変わっても、神宮の存続は保障されている。一方、このように国民から支持を受けられなかったら、生き残ることはできるはずはない。幅広い住民層から支持を得るのは公共性の一つの側面だとすれば、もう一つは開放性である。誰でも神宮に入って、祈ることができる。むしろ、正式に祈らなくても良い。これも公共性の重要な一部であろう。

普通の神社の危機を考えて、小林先生が提案した。それは、神社本庁が広く募金して、その浄財を使って祭祀の維持に努めることだった。これも、私はいいと思う。実は、もはやこれに使える制度が存在する。それは、神社本庁の協賛員の制度である。この制度で、毎年で神社本庁に寄付するが、そのお金は「神社本庁の目的に使う」ということだ。それをより具体的にして、「奉仕する神職などはいない神社の祭祀を行うために使う」としたら、浄財を広く集められるのではないか。有名な神社ではなく、無名な地方の神社の存続に大きく貢献できるとも思われる。

そして、小林先生が指摘したので、神社の公共性を強調したかったら、それは具体的に何であるかも理解しなければならない。宗教的な基盤に基づいて、社会との関わりを展開すべきであるが、その基盤は何だろうと問いかける。確かに神社神道の宗教的な基盤は曖昧で、明らかにされていない。そのため、ただの政治的なナショナリズムに陥る虞がある。私も同感する。神社神道の独特な性質を見せるために、まずその性質をか投げなければならない。祭祀や神事の継続はもちろんその一部であるが、それだけで十分だろう。

これから、さらに神社神道のあるべき姿について考えていきたいと思っている。一方、この本は、全てに神職に読んでほしい。神社神道の将来のためのヒントが多く含まれている。