阿蘇神社

雨の中、右には桜に見えるし、左には白い覆屋がある。
阿蘇神社の楼門の前。楼門は左の覆屋の中にある。
今月10日に、熊本県の阿蘇神社にお参りした。これは、応援参拝だったといえよう。被災地の復興にあまり貢献できないが、できることはやりたいので、東北と同じように、熊本に出かけた。真由喜の学校の関係で、一人旅になった。

9日の宿泊先は阿蘇の四季という旅館だったが、最高だった。部屋もお風呂も食事も素敵だったし、駅からも阿蘇神社からも簡単に歩ける距離だった。ぜひ、次回家族で行きたいと思う。

天気は生憎の雨だった。阿蘇神社を囲むカルデラを雲や霧の隙間からチラッと見えたに過ぎなかったが、それでも景色は綺麗だった。次回、晴れの日に見たいと思うし、駅で紹介された散歩道も歩きたいと思う。

雨の中、基盤が見えるが建物は撤去された。
阿蘇神社の拝殿があったところ。左奥に本殿の一つが見える。
現在、豊肥線は阿蘇から熊本まで普通になっているので、大分経由で行くことになったので、帰りの電車もお昼前に出発することになっていた。そのため、阿蘇神社への参拝は朝一番にした。

祈願祭は仮拝殿の中で斎行されたが、その仮拝殿の雰囲気は意外と良かった。床には玉砂利があって、素木の柱などがあったので、清々しい感じになっていた。祈願祭の一部は神楽だったが、この神楽には舞はなかった。その代わりに、太鼓での神楽だった。雅楽と違う雰囲気だったので、この神社で伝統がある神楽なのではないだろうかと思った。

祈願祭が終わったら、神職とちょっと話すことができた。拝殿の再建には4、5年がかかる見込みだそうだが、文化財である楼門の再建には10年程度になるという。やはり、文化財の価値を保護するために、まず解体して、そして丁寧に再建しなければならないので、予想には難しくない。復興の進歩を見るためにも、またお参りしたいのである。

ちなみに、電車から見えた九州の景色も大変綺麗だった。私は山が好きなのだが、九州の山の風景は魅力的だった。ちょっと遠いが、九州もさらに旅したいとも思ってきた。

水若酢神社

神社の拝殿と本殿隠岐島で最後にお参りできた神社は、水若酢神社だった。本当であれば、順番は逆であるべきだ。なぜなら、水若酢神社は隠岐の国の一宮であるからだ。一宮という呼称は、一番神威が高い神社をもちろん指すが、その上国司が国に入るとき最初にお参りする神社という意味も持っている。確かに、私は国司ではないので、許していただけるかな。

神社の案内板によると、御祭神は水若酢命だそうだ。この神様は、起記神話には登場しないが、島の神話によると海から来て、島の開拓に努めた神様だそうだ。

残念なことに、神社が災害とあって、古文書が殆ど失われているそうだ。だから、神社の歴史などには不明な点は多いようだ。それでも、残っている文書などによると、神社の鎮座年代は崇神天皇の御代であるそうだ。崇神天皇は実在していない天皇だし、西暦に変えれば紀元前20年ぐらいだと言われているので、神道の祭祀が発生する前の時代だ。だから、単純に「大変古い神社」という意味である。そういう風に捉えたら、証拠は多い。延喜式で名神大社に列せられるので、10世紀までに重要な神社になっていたことが分かる。

本殿は国指定重要文化財で、隠岐造りの建築だそうだ。玉若酢神社もそうだったが、隠岐島の特徴を表す建築だそうだ。大社造りに似ているのは当たり前だろうが、正方形ではないことも入り口が褄入りであるものの壁の真ん中にあることは、大社造りと区別するようだ。

土や天井がなくなった古墳で、石の壁が見える。そして、境内には古墳がある。石の壁しか残らない古墳を見たが、仲の形が分かるのは興味深かった。この古墳には、地域の豪族が葬られたと考えられているそうだから、これも神社の古さを証明するかと思うだろう。しかし、神社が水害に何回もあって、遷座は多かったそうだ。元々の鎮座地は、現在の鎮座地の北にあったそうだ。だから、最初からこの古墳と関わったと言うわけはない。しかし、古墳は6世紀〜7世紀だと思われているそうだから、神社の建立時代とほぼ同じなのではないかと思っても良いだろう。

他の看板によると、この神社の例大祭は素晴らしいそうだ。大きな山車があって、巫女舞などが奉納されているそうだ。見たくなったし、この神社へまたお参りしたい他の理由もある。その理由は、御朱印をいただけなかったことだ。撮影の後でお参りできたので、時間が合わなかった。社務所はもうしまっていたし、お邪魔する時間でもなかった。家族で隠岐島をもう一度訪れたら、昼間にお参りする。

駒形神社

境内の入り口から拝殿が見える駒形神社{こまがたじんじゃ}は、陸中一宮だ。月曜日に岩手県への旅行の一環としてお参りした。被災地復興祈願祭を執り行ってもらったが、神事はいつもの通りだったので、詳しく書かない。

神事が終わったら、神職とちょっとお話した。駒形神社は海岸から遠いので、津波の被害はなかったそうだが、岩手県南部では地震は強かったので、地震で被害を受けたと言う。建物が壊れて、三千万円の被害額になったそうだ。私の奉納は微量でありながら貢献できればと思う。神主によると、被災地以外のところから人が行ったら、嬉しいそうだ。応援されていることを感じるからだという。だから、被災地へ行くこと自体には意味があるようだ。私は、まだ沿岸部に行ったことはないが、もうすぐ行ったらいいかと思う。神主によると、震災から一年半あが経って、被災者がやっと前向きになっているそうだ。ショックなどが和らいで、現状と直面して前進する方法を探っているそうだ。だから、今こそ応援が必要になる。支援の必要性が減るとはいえ、応援が益々重要になるのではないか。だから、私がまた東北旅行を計画したいと思う。

拝殿に付いた注連縄と神社の名称駒形神社の御祭神は、天照大御神{あまてらすおおみかみ}天常立尊{あめのとこたちのみこと}國狭立尊{くにのさたちのみこと}吾勝尊{あかつのみこと}置瀬尊{おきせのみこと}彦火尊{ひこほのみこと}の六柱だ。社伝によると、鎮座は五世紀だったそうだし、「コマ」が朝鮮半島の高句麗と関連するそうだ。狛犬の「コマ」も朝鮮半島を指すので、神道には珍しい現象ではない。初頭には、朝鮮半島からの渡来人の神社だった可能性もあるだろう。坂上田村麻呂以来武家からの崇敬が篤かったそうだが、馬との関連から、現在一番有名であるのは、交通安全なのようだ。ご祈祷の受付で交通安全の幟は少なくとも数十枚が飾られ、交通安全祈願祭の専用申込書も備えられている。

神社には長い歴史があるものの、拝殿は新しい。しおりの年表によると、平成15年に造営されたそうだから、私が日本に来た年の建物だ。神社に新しい拝殿などには、妙な違和感がある。伊勢の神宮を考えれば、実は新しい建物は本来の姿だが、殆どの神社で少なくとも数十年の建物だから、もう少し古いところに慣れてきたと思う。神道は古くて新しいと言われるが、まだ「新し過ぎる」と感じてしまう。もちろん、時が経つと古くなるが、新しいものを軽蔑するべきではない。この直感も考えたいと思う。

それでも、いい神社だった。境内が公園と隣接するので、環境もいいし、人の態度もいい。実は、神職に「水沢に移住しませんか」と言われた。もちろん、周辺の活気を祈るのは当然だが、いい印象を受けた。ご参拝をお勧めする。

石都々古和気神社

ツツコワケ神社の巡拝の最後の神社は、石都々古和気{いわつつこわけ}神社だった。馬場都々古別{ばばつつこわけ}神社から水郡線{すいぐんせん}にまた乗って、15分ぐらい北へ向かった。もう夕方になっていたし、道がはっきり分からなかったし、寒くなっていたので、駅でタクシーに乗って神社へ向かった。

石都々古和気神社の心に残る印象は、宮司さんと奥様の大変親切な態度だった。着いたらすぐにお茶とお菓子を出してくれて、雪の状態を説明した。話し合いの結果、正式参拝を社務所に付く祭場で行うことにした。正式参拝で、宮司さんが大祓詞を奏上してから、私が玉串を奉った。

亀の形の石。
亀石。右後ろに立つのは、屏風石。
それから、もう少しお茶を飲んでから、長靴を貸してもらって、宮司さんと一緒に境内を見に行った。石都々古和気神社が丘の上に鎮座するが、昔から山岳信仰と関わるところだそうだ。一万年位前からの祭祀遺跡があると言われるが、丘には磐境{いわさか}が沢山残るという。神社の周りにはそのような磐は多いので、このことから「石」都々古和気神社と呼ばれるのだろう。雪を冠る磐は印象的だったし、夫々に名前がついているようだ。亀石という磐は、本当に亀に似ているし、舟形石も舟の姿をした。宮司さんによると、昔舟形石の上で鹿骨の占いを行ったそうだ。山に三種の神器の鏡、剣と勾玉の磐があるので、神宝は勢揃い。

境内の山には紫陽花や桜は多いので、四月中旬や六月下旬にはとても奇麗だそうだ。そして、雪のない日に、気軽に歩ける山だから、気持ち良さそうだった。雪の中でも住民が散歩する面影があった。神社の隣にお城の跡が公園になって、桜が色々な種類で生える。枝垂れ桜もあるし、勾玉石の上に樹齢170年の「天竜桜」も聳える。

社殿の隣に石造の五重塔が建つ。塔と言うのは、仏教の建築であることはご存知の通りだから、神社の境内に見つかるのはちょっと珍しい。宮司さんによると、昭和時代に創建されたそうだから、神仏分離の前からの名残ではなく、信仰の続きと関わるようだ。前に述べた通り、この神社が山岳信仰と関わったそうだが、山岳信仰には神仏習合色は特に濃かったので、この神社の信仰にも残ったと思ってもいいだろう。

雪のある石段の上、鳥居と社殿それでも、今のところの御祭神は味鋤高彦根命{あじすきたかひこねのみこと}大国主命{おおくにぬしのみこと}誉田別命{ほんだわけのみこと}だそうだ。誉田別命は八幡さんの別名だが、社伝によると、誉田別命が1066年にこの神社に勧請されたそうだ。勧請したのは、八幡太郎の源義家{みなもとのよしいえ}に仕えた石川有光{いしかわありみつ}だったそうだが、勧請の前から神社があったことは確かだ。式内社でもあると言われるし、延喜式は10世紀前半に編纂されたからだ。しかし、現在の例大祭の日にちは、誉田別命の合祀に因んで執り行われるそうだ。このような現象は珍しくないようだ。即ち、後世に勧請された有力な神様が土着の神様より権威を握るようになる場合は多い。想像に難くなかろう。

山から下りたら、宮司さんの奥様が暖かい牛乳を用意してくれたし、駅へのタクシーを呼んでくれて、そしてタクシー券を下さったので、駅までのタクシーは無料だった。本当に親切に扱ってもらった。この神社も、夏になったらまたお参りしたいと思うが、今年は無理だろう。それでも、温泉郡に近いし、桜も奇麗だと思うし、新幹線と水郡線を使ったら交通も不便ではないので、可能なのではないかと思っている。