神道の中の産霊

今まで日常生活の中の産霊の尊崇について論じたが、神道の宗教的な活動にどうやって反映したらいいかについてこの投稿で扱いたい。

先ずは、産霊の神様を崇敬することは相応しいだろう。造化三神の二柱のタカミムスビの神とカムムスビの神を代表すると思う。漢字の表記は様々だが、ここで高御産霊神と神産霊神として表記させていただく。古事記の冒頭に現れる神で、アメノミナカヌシの神と違って、それからも神話で登場する神だ。高御産霊神は、高天原を支配する性格もあるし高天原系の神と深い関係を持つが、神産霊神が出雲系の神と深く関わる。だから、二柱を崇敬すれば、産霊だけではなく八百万の神に対する崇敬も象徴すると言える。あいにく、神社の祭神として人気度は低そうだから、お札を入手することはちょっと難しい。東京大神宮の祭神だが、それは天照大神が主祭神である「東京のお伊勢さま」と自称する神社だから、重点が異なる。他の比較的に近い神社は福島県の安達太良神社や長野県の四柱神社もあるが、ヒカクテキニ近いとは言え、電車で3時間程度がかかる。ちょっと不便だろう。

では、実践の問題を置いておいたら、私の神道観念で高御産霊神と神産霊神が中枢に位置すると言えよう。

狭義で宗教活動と言うことから俗世と関わる神社の活動に目を転じよう。この面で何をすればいいだろう。

先ずは、神社で神道関係の作品を歓迎したらいいだろう。ここで「作品」と言えば、美術の作品も、工芸の作品も、本や漫画や映画などの物語の作品も含まれる。美術を受け入れる伝統は長いし、伊勢の神宮の新宝は重要な例であるので、それは問題ないと思う。漫画などに対する抵抗感や違和感があるかもしれないが、縁起絵巻は漫画のようなものだし、記紀神話は物語だから、これを受け入れる伝統も長い。もちろん、神社に好ましくない作品もあるが、対応策として神社界の本質をアピールする作品をより促進すればいい。好ましくなくても、抑制することは産霊に背くと思った方がいい。

促進するために、神社の資産を使って作らせてもいいと思う。産霊を尊崇することは神道の中枢にあれば、これも宗教的な活動だし、式年遷宮が前例になる。そして、作品を奨励する制度を設けたらいい。表彰などで奉納された作品を認めたら、奉る人が増えるだろう。

また、神社がより積極的に教育と取り組んだらいいのではないか。宗教系の学校法人の統計データを見たら、神道系の学校は極めて少ないであることが目に当たる。大学は二つしかないし、高等学校以下の施設も合計で十に至らないほどだ。幼稚園は勿論あるが、それも珍しいほうだ。学校だけではなく、生涯教育を提供したらいいと思う。もちろん、神道についての教育が自然に中軸になると思うが、産霊を尊崇するために何の教育でもいいので、広い範囲で考えたほうがいい。例えば、神社で誰も閲覧できる神社神道についての書籍を集める図書室を設けたらいかがだろうか。そして、宮司や禰宜が公開の講義を行ってもいい。言挙げせずとちょっと合わないだろうが、祭祀の一部ではなく、成長の応援の一部として提案する。

もっとも、教育をよく考えたら、勉強や学問には限らない。神社で実践なども教えることはできると思う。素朴な事例だが、参拝作法が分からない人は日本人でも少なくないので、それを教える一時間の講座を設けたらどうだろう。本などを読んでも、手水舎でどうやって口をすすいでから水を吐くかわからない場合は多いが、手本が見られたら問題はない。素朴なことから始めても、効果が期待できる。

最後に、狭義の宗教活動に戻りたい。これまでの方針が今までの神道の実践と全く相違しないが、次の提案がちょっと逸脱するだろう。創造を尊崇するために、新しい祭祀などを発明したらいいと思う。神道についての書籍でよく「伝統を守るべき」のような内容があるし、神社本庁の憲章には「神職は、使命遂行に当つて、神典及び伝統的な信仰に則り、いやしくも恣意独断を以てしてはならない。」(第十一条3項)と書いてあるので、神社界は祭祀の創造にたいして消極的であることは明らかだ。

しかし、私がまだ創造を推進したいので、その理由をここで紹介する。

先ずは、伝統を捨てることを勧めるわけはない。産霊から始めたが、伝統の重大性についても書くつもりがある。ここで、序章を繰り返して、伝統を尊重する必要性を強調したい。だから、新しい祭祀を創造する為に既存の祭祀を乱れに廃止したり、変容したりするわけにはいかない。そして、創造と言えば、ゼロから創造することだけではなく、あるものを更新することも創造の一種だと言ったので、それもここで活用する。要するに現在の社会環境に合わなくなった祭祀の更新も創造の一つだ。例えば、伝統として神輿を数十人の氏子の壮士に担いでもらうが、現在過疎地になって氏子の最若年者はもう五十歳を超えたら、更新が余儀なくされる。そして、祭祀が社会の変更によって関心を失いつつある場合、衰退する前にどうやって調整したらいいかを考えたほうがいいのではないか。これも創造だ。

それに、明記したら当たり前だが、何の祭祀でも、いつか創造された。大嘗祭であれば、七世紀だったろうか、その前だったろうか、古からの祭祀だが、神前結婚であれば、明治時代に創造された。だから、祭祀を創造するからといって、神道の伝統に背かないのは明らかだ。そして、祭祀の中の祝詞を場合に応じて作成することは普通なのようだ。もちろん、典型的な祭祀であれば、例えば例大祭か、それとも諸祭で厄除か、定められた祝詞を使うことは多いが、ちょっと珍しい祈願祭や報告祭で、目標に相応しい祝詞を作ることも少なくない。私が白幡さんでのご祈祷の場合、独自の祝詞を奏上していただいたことは多い。神社本庁の祝詞の例文集には永住許可の報告祭の祝詞は載っていないようだ。つまり、祭祀の中に創造が働くことは、神道の伝統でもある。

また、神社神道全体の伝統も一つの神社の伝統も踏まえて、慎重に新しい祭祀を創るべきだ。現在で発明された物や習慣を取り入れてもいいが、神道の神事を創ろうとすることを念頭に置くのを忘れてはならない。或る意味で保守的な創造である。神道の祭祀に漸次進化する姿は相応しいと思うので、革命的な変化を齎さないほうがいい。と言っても、一つの完全に新しい要素を神事に盛り込むことを否定しない。むしろ、その方法で神事が永遠まで生きる為の力を得ると思う。ただし、一気に受け継がれてきた形を一変することは避けてほしい。慎重で部分的に更新すれば、神道の神事であることはまだ明らかだが、不毛な骨格にならない。好例として、合格祈願や神田明神のパソコンお守りを挙げよう。合格祈願は、入学試験がなかった時代にはなかったが、神道の主流を汲む新しい祭祀だ。そして、パソコンのお守りは、お守りであるが、現代技術に向き合う。

神道界でこのような行動があったら、それは産霊の尊崇になると私が思う。

産霊〜態度

産霊の尊崇は、行動ではない。むしろ、態度であり考え方である。この態度が自ずと行動で表現されるし、それより封印するようにしても抑えられないことだが、態度は基本だ。前回に言った通り、生きるだけで産霊を尊崇する行為は避けられない。他方、産霊の尊崇を表す行為以外の行動をする必要もある。だから、「このような行動はいい」という助言で止まったら、生き方の指導にならない。そうすれば、好ましい行為を具体的に一つ一つで指摘するか、行動の動機になる態度を描写するか分岐に直面する。態度を重視することには幾つかの理由がある。

先ずは、神道の「言挙げせず」原則を留意しないといけない。行動の詳細を定めるには言葉が必要となるので、話すばかりになる。しかし、態度であれば、概ね言葉で描かれて、そして例の指摘に任せてもいい。身近な人に教えようとしたら、言葉なしにできることだ。子供が親の背中を見て育つと言われるが、態度をそのように授けることは可能だ。ブログで言葉しかないので、言葉の使用は不可避だが、態度を重視すればそれは媒体の影響に過ぎない。行動を詳しく定めれば、言葉は避けられないことは、目標の本質の結果だ。一般で抽象的に行動を定義することは、言葉でしかできない。

そして、態度を重視すれば、曖昧にも柔軟にもなる。日本人は、曖昧のことは大好きで、日本の神道の観念に相応しい方針なのではないか。でも、曖昧さには本格的な利点もある。それは、他人を攻めることが難しくなることだ。倫理を他人を攻めたり批判したりするために使う人は少なくないが、そのような用途が避けたい。むしろ、このような生き方の態度を、自分の人生の道標として使うべきだと思う。自分の態度が曖昧であっても、自分の解釈で自分の人生を導いても良い。

さらに柔軟さのお陰で、社会が変わったら、具体的に推薦される行動も自然に変わる。これは極めて重要だと思う。昔からもう相応しくなくなった行為を強く維持する宗教などは決して少なくないので、私の神道観念が同じような罠に陥らないように気をつけたい。態度を基本とすれば、態度を持つ人が現状を見て、態度を表すために相応しい行動を選ぶので、行動がいつも現状に沿って変容する。

では、どういう態度を推薦したいかというと、積極的に世界の創造と成長を増やす態度だ。だから、普通の生活や仕事に伴う創造と成長に止まらず、生活の中で創造や成長の機会を探して、見逃さないことだ。何の生活でも、機会は活かせないほど多いと思うので、選択する必要がある。この選択について、拘束したくない。「一番成長になりそうな行為を選ぶべきだ」などとは言わない。なぜなら、人によって趣味や関心が異なるので、大きく成長すると予想できるのに関心は全くないことを無理矢理させることは愚か、その行為に対する義務づけの気分さえ押し付けたくないからだ。本当に積極的な態度を持ったら、成長や創造の少ない行動をわざと選ぶ筈はないので、個人の判断に任せることは基本だ。

そして、自分の行為だけではなく、周りの人や環境の創造や成長を推進することとも積極的に取り組む態度だ。先ずは、他の人の成長や創造を防止する行動を避けることになる。確かに資源に制限がある限り、私が使ったら他の人に使えなくなるので、何をしても他の人の創造を妨げると言えるが、ここで態度であることは重要だ。自分が産霊を尊崇するなら、当然創造したり成長したりするが、過剰に他の人の行動を妨げることも避けたくなる。このような過剰な防止には人に傷を付けたり、物を盗んだりする行為が当然含まれる。それに加えて、人を成長や創造と取り組む機会はない状況にも追い付けたくない。例えば、生計を補う為に毎日11時間働かせることは、産霊を尊崇する態度と合わない。人を雇っても、成長や創造の機会を少なくとも残すのは当たり前だ。できれば、このような機会を積極的に与えたほうがいい。

しかし、周りの人を強制的に成長させるわけにはいかない。産霊は、生命の力であるので、行為は自発的ではなければ、産霊から遠ざかる。だから、成長や創造の機会を増やしたり、無駄な時間に誘う罠を減らしたりするが、最終決断を本人に委ねるべきだ。人間以外の生き物も同じように取り扱うのは基本だ。要するに、繁茂する機会や環境を作るが、それから自然の力に頼って、傍らから見るだけだ。

この態度を取ったら人生には難しい判断が無くなるわけではない。むしろ生き物の数と同じように多い困難な判断がでると思える。しかし、この態度が性格に付着したら、問題を考えたり、いい解決方法を探ったりすれば、結果として産霊を軽視するはずではない。ある問題をその問題の詳細や実状によって解決するしかない。類似する問題が参考になるが、必ずしも同じ解決方法を取るべきだとは限らない。他の人の判断を裁く為の言葉で表した規則はないので、自分の選んだ行動を釈明するにはただ「産霊を尊崇した」と言うしかない。ここで、言葉で説明できる限界に近づくので、言挙げせずの要素が見えてくるだろう。

規則はなかったら、自分の心の中でこの態度を育む必要がある。それをどうやってできるのか。実は、難しくない。但し時間がかかると認めざるを得ない。基本方針は、この態度があるように行動することだ。そうすれば、自然にこの態度が性格の一部になってくると思われる。

例えば創造に対して積極的な態度を育むために、毎週短歌を一首詠むことにしたらいいだろう。最初にちょっと重く感じるかもしれないが、継続したら慣れてくるし、しないと何かが欠かすように感じるようになるし、それに結局詠む首数を増やしたくなるだろう。成長にも同じような行動が効くと思われる。もし中国の唐の時代について勉強することにしたら、漫画の歴史の本から始めても、より詳しく知りたくなって、そして関連する出来事についても好奇心が湧いてきてもおかしくないだろう。

こうすれば、態度を育んでいる間にも産霊を尊崇する生活を送る。要するに、待つ必要はない。態度を育むために小さなことから始めてもいいので、誰でも今日から取り組める。一方この生活には限りはない。成長も終わらないし、創造できることを使い切れる可能性もない。この要素で人の心を惹くことができると思う。楽しめるようになる前に長い訓練は不要だが、奥深くて醍醐味があるからだ。その上、心理学の研究の成果を見れば、創造や成長が人間の幸せに貢献するそうだから、こうする人が後悔しないとも思える。

産霊は、生命の力だから、生き物の行動に否定的な態度をとればちょっと矛盾を抱える。だが、本当に産霊を尊崇する態度を持てば悪質な行動を禁じる、即ち行動を否定する、必要がなくなる。産霊の尊崇を表すために精一杯になるので、悪いことをする余裕がなくなるからだ。だから、褒めたり勧めたりすることであるべく性格を育てることはできる。産霊の尊崇を教える時も、産霊を尊崇できる。

産霊〜創造

産霊を創造と成長の力として解釈することになったが、前回成長について論じた。だから、今回創造について語りたいと思う。成長と同じように、創造を広い意味で捉えたいのである。

最初に生物学的な創造は産霊の純粋な表れだと言わざるを得ない。人間と言えば、子供を産むことだ。大自然を考えたら、小鳥のひよこの誕生も、森が新しく生えることも創造で、産霊だ。確かに鼠などが産まれすぎたら問題になるし、地球の総合人口が高くて問題になっているのでこれより赤ちゃんを産まないほうがいいということもあるが、それはまた共存について論じる時に扱いたいと思う。ここで、とりあえず産むことに積極的な態度を取るべきだと主張したい。

ところで、ここでちょっと指摘したいことがある。性的な行為は、生物学的な創造と深く関わるので、それも基本的に肯定的に評価するべきだと思う。これもややこしくなりがちな課題だが、前提としていいことだと念頭において論じるべきだと述べたい。

さて、創造に戻ろう。私の解釈で、産霊が子を産む創造には限らない。創造には種類は多いが、そのすべてが産霊に含まれると思う。成長と同じように大別したら、作品、発明、施設の三つになるだろう。一つずつ具体的に紹介する。

作品の典型例として、絵画や小説を挙げよう。要するに美術や芸術で、想像のままで創造できることを指す。短歌や音楽も、書道も含まれている。そして、作品を広い意味で捉えるべきだ。公演や演奏も作品の範疇に納めたいと思う。なぜなら、小説や絵画の作品のように、人間の気持ちや概念を表現する行為で、何かを創造する行為でもあるからだ。曲の演奏も、作曲と同じように音楽の創造に欠かせないことだ。だから、芸能人は、自分の技を磨いて産霊の成長を尊崇する生活に加えて、公演などで産霊の創造も尊崇すると言わざるを得ない。この立場から考えたら、芸能人は卑しめる存在では全くない。むしろ、人生の中心に据えることに励んで、尊敬するべき存在であると言ったほうがいい。

発明と言うのは、ここで科学で新しい理論を作り出すことや技術を駆使して新しい機械などをだすことを指すようにする。作品と違って、人間の気持ちや概念を表現することではない。それより、自然に秘める潜在的な能力を導き出すことだ。だから、創造より発見として捉えることは多いかもしれないが、私が創造の一種として認める。機械の場合、これで頷いてもらうと思うが、物理学の理論は創造より発見であると思う人は少なくないだろう。ニュートンが重力を創造したとは言えないが、発見したと言えるのではないか。

確かに重力そのものは、人間が現れる前から存在した宇宙の基盤の一部だ。しかし、ニュートンの発明は重力そのものではなく、重力を理解する為の理論だった。そして、アインシタインの理論のお陰で、ニュートンの理論には間違った点があることが分かった。要するにニュートンが発明した理論は、事実の写しではなく、ニュートンが創造した事実を説明する発明だった。だから、私が科学の理論も創造の種類として認める。

でも、言っておきたいのは、科学なら何でもが創造の範疇に含まれると言うわけはないことだ。未知の動物を見つけて、学界に紹介したら、それは科学に大変貢献する行為だが、創造とは言い難いと思う。一方、この発見で人間の知識が深まるので、産霊の成長に尊崇する行為だ。だから、科学を励んだらそのことで産霊を尊崇すると言っても過言ではない。産霊の側面が場合によって異なるものの、行為の基本方向がいつも産霊に向かう。だから、成長か創造かという区別に拘らなくても良い。

では、最後に施設について説明する。「施設」も広く解釈したい。学校を創設したら、それが一つの例だ。創業者も施設の創造をしている。法律の案を構えて、採決させることも施設の創造だ。つまり社会で働く制度などを構えることは施設の創造だ。このような創造の場合、完璧に前例を真似しても創造に当たる。ある学校の構造が大成功と認めたら、同じ構造でまた学校を創設しても差し支えないので、これも創造として認めるべきだと思う。つまり概念をもう一度実現することも創造だ。

挙げた例を顧みると、大規模な物ばかりだ。私のような一般人がニュートンのように科学に革命をもたらす理論を発明できるわけはないし、学校を創設する為の資金もないし、小説を書くことは、私にはあるものの、まだ誰でもできることではない。だから、創造で産霊を尊崇できる人は限られていると言いたいのだろう。

確かに誰でもできるとは限らない。だが、小規模な創造も認めるべきだ。例えば、子供に自家製の物語を語ったら、それは創造だ。自家製といえば、自家製の料理も創造だ。レシピに従っても、材料から食事を作ることも創造だ。それは、概念を実現することだからだ。生活をより快適にするために家族のスケジュールを構えることも、施設の創造の例だ。だから日常生活の中の創造も認める。

その上、一人で何かを創造する必要はない。他の人と協力して、大規模な何かに貢献することも、産霊の創造を尊崇する行為だと思う。プロジェクトに寄付することも、相応しい行動だと思う。つまり建設会社で働く純労働者も、毎日の行動で産霊を尊崇する。工場で働く人も、工場の生産に貢献するので、普通の仕事で産霊を尊崇する。

最後に、失敗しても、努力を評価しても良いとも思う。成功した方がいいのは言うまでもないが、創造することは難しいので、努力する行為も産霊を尊崇する生活だ。だから、能力が足りるかどうか分からない場合でも、挑戦しても良い。

成長や創造の範囲の広さを考えると、産霊を尊崇せずに生きることは難しいと思ってくるだろう。それはそうだと思う。産霊は、生きる力だとも言えるので当たり前だ。しかし、推進したい生活は、積極的に創造や成長を進める生活だ。だから工場での仕事だけではなく、プライベートでも何かを創造する。例えば趣味で書道の作品を作ったり、バルコニーで植木鉢の庭を育てたりする。産霊を尊崇することは、最低限で義務を果たすことではなく、積極的に人生を豊かにする態度だ。次回、この態度についてもう少し論じたいと思う。

産霊〜序章と成長

真由喜の三歳の七五三を執り行ってもらったら、お下がりと一緒に神奈川県神社庁教化委員会によって作成された『みんなの神様:天孫降臨』という冊子を頂いた。裏表紙には『「ムスビ」のちから』という記事が載っている。この記事の中で「ムスビの力とはすべての物を産み出す働きを表しています。」と書いてある。このムスビを「産霊」と表記して、私の神道観念にも中枢に位置づけたいと思う。

一般的で抽象的に言うと、産霊は創造と成長の力だと解釈する。産霊を尊崇することは、概念的に私の神道観念の中軸である。ここで留まったら、誰も反論できない概念になるだろう。「創造と成長に反対する」という人はいるだろうか。誰も反論できない概念には内容は乏しいとよく言われるが、私もそう思う。全く空虚な概念になるわけはないが、役に立つようにしたければ、より具体的に説明する必要があると言える。だから、この投稿で「産霊を尊崇すること」の具体的な説明と取り組みたい。

成長の力の側面から始めよう。成長する為に、生きることは大前提であるので、成長する力の下地として生きる力を尊崇する必要がある。ここで生きる為に必要な行為を評価する態度を指す。具体的に、食物を食べたり、飲物を飲んだり、必要に応じて眠ったり、寒さや暑さを衣類や建物で防いだりすることだ。所謂衣食住を評価する態度だ。これはまだ反論できない内容だと思われるかもしれないが、多くの宗教が異なる。仏教の修行で断食することも多いし、寝ずに読経を続けることなどは評価される。私の神道観念でこのような行為を評価しない。むしろ、産霊の軽視として捉えて、避けるべき行為だと言いたい。それに、食事を楽しむことも、基本的に産霊を尊崇する行為の一つであるので、やるべきだとも言える。努力してから温泉でのんびりすることも、力の回復になるので、いいことだ。一方、いつも怠け者にして、だらだらすることは、生きることに差し支えなくても、成長に繋がらないので、産霊の尊崇とは言えない。生きる為に食べるので、食事を満喫して楽しむのを評価するが、産霊は単に生き残る力ではない。今の状態の維持を超える力だ。

生きる前提を確保したら、成長そのものに力を注ぐことは産霊の尊崇を実現する行為の一種だと言いたい。成長には広い意味があるが、そのすべてが指したい。先ずは、生物学的に大きくなることも含まれている。小さい子供は、無意識で産霊の力を尊崇する。身体だけではなく、心も成長するからだ。同じように、人間ではない生き物も産霊の力の尊崇を表現する。茂る木々が山を覆えば、それは産霊を表現する。水田で稲が稔ることも、産霊の顕現だ。小鳥の成長も産霊の一種として尊重しなければならない。この点で環境が複雑になるが、問題を「共存」や「結び」について論じる投稿で詳しく語りたいので、ここで基本的な態度について書いておく。それは、肯定的な態度を取るべきだ。自然の万物の誕生と成長に対して抑制するべきではない。複雑になるが、方針はできるだけ自由に産霊を表すようにする行為をとるべきだと思う。具体的な意味は、後日に任せたい。

ここで、人間の人生の中の成長について具体的に私の考えを表す。今考えれば、三つの範疇に大別できるようだが、これ以外の方法もあるかもしれないとしても、この三つでもう広い範囲に及ぶ。一つは、経験や知識を豊かにする。もう一つは、能力や技術を磨く。最後に、共感や智慧を深める。順番に説明する。

経験や知識を豊かにすると言うのは、勉強はもちろん、旅なども包含する。書籍を読みながら日本の古代のことを学ぶことは、確かに知識を豊かにする行為だ。私なら、この方法が好きなのだ。しかし、これだけではない。富士山を登山することも、海で泳ぐことも、自然と触れることも経験を豊かにする。それに音楽を沢山聞くことも、人と会談することも、経験や知識を豊かにする。同じことを繰り返すのが包含されないが、同じように見えても毎回別なことに意識的に気づいたら、それも豊富な経験を得る方法の一つだ。例えば、毎朝日の出を見たら、毎朝雲の模様とか鳥の鳴き声などを意識すれば、この範疇に入る。ある意味で、刺激になることがすべてこの範疇に入る。どのような行為に重みを置くのは、個人の好みによってだと思う。

そして、能力と技術を磨くことは、分かりやすいだろう。能力や技術の内容を問わず、磨くのは成長の一つだから、その行為が産霊の尊崇を表す。産霊の他の側面に貢献する能力がより良いと思われるだろうが、他の目標はない技術もいいと強調したい。それより、産霊を本格的に尊崇する為に成長の為に技術を磨くべきだから、技術には他の目標がないと特に産霊尊崇の結晶だとも言える。確かに産霊に背く技術を避けた方がいいと言えるだろうが、産霊に背くことは、技術そのものより、技術の使い方にあるので、強くてもちょっと慎重に考えた方がいいという助言に終わるだろう。

最後に共感や智慧を深めることだ。人と自然と接して、生き方を理解することだと言えるだろう。技術や知識をどうやって使うべきことがわかるために必要な要素だ。言葉で表現するのは大変難しいが、知識の一種として捉えられたら、技術の一種としても捉えられる。しかし、指導的な役割を担う智慧を、区別したい。これを深める為に、オープンな態度は必要だと思う。いつも自分は正しいと思わずに、いつも前から持った解釈を強く維持せずに、得た経験や技術によって導かれさせることだ。特に他の人と接すれば成長する要素だが、それだけではない。何の経験でも智慧に貢献できる。

智慧でよく見えることは、この三つの成長の要素をはっきり区別することはできないと言うことだ。だから、ある行為が知識を豊かにする行為か、技術を磨く行為か、まったく拘らない。成長に貢献するかどうかは重要な基準である。

この成長は、生きる限り増すとも言えるが、産霊を尊崇する行為とは、積極的に促す行為だ。だから、積極的に人生と取り組んで、前向きに新しい経験を求めたり、新しい知識を探したり、新しい人との付き合いを受け止めたりすることだ。そして、自分だけではなく、他人にも促進や貢献する行為が含まれる。教師として働くそのものは、産霊を尊崇する行為だと思わざるを得ない。(ラッキー!)

他の具体的な例として、選手が思い浮かぶ。技術を磨くのは主な行為だから、産霊を尊崇するほかならない。芸能人が自分の技を高めようとすれば、それも産霊を尊崇する人生だ。だから、所謂インテリの間に芸能人やスポーツ選手を軽視する傾向があるようだが、私はそれとはっきり違う。知識を積み重ねるインテリも産霊を尊崇する生活を送っているが、技術を先鋭に磨く選手が一部たりとも劣らない。

この投稿がもう長くなったが、創造の力にはまだ触れていない。だから、この話題を分けて、後日に続けたいと思う。