私の生活、意見、日本語の練習

上目黒氷川神社

チャート・デイビッドによって2010-02-09に更新された。
階段と鳥居

高層ビルの隙間に入る参道

先月大山街道を歩いた時に、通り過ぎる神社にお参りしたので、ブログでの紹介を続けたいと思う。今回は、上目黒氷川神社だ。

銅板葺きの社殿

社殿を見たら、もう都会が見えない

一番上の写真から見えるように、丘の上の神社で、もうビルに囲まれた。だが、境内に辿ったら、かなり広くて、空の見えた。本殿には須佐之男命が祭神として祀られているが、境内社もあるし、浅間神社と稲荷神社もある。

神社の建立は、看板に夜と天正年間(1573−1592)だそうだ。神社として、特に古くはないが、東京の地方でその時期に建立された神社は少なくないようだ。徳川家が江戸に入城した時期だからだろう。それまで、江戸はマイナーな街だったが、17世紀に入ると一変変わったので、神社も鎮座された。ところで、ご存知の通りだが、氷川神社というのは、さいたま市の氷川神社と関わる関東に限る系統の神社だ。「氷川」というのは、島根県の「斐川」の当て字だと言われるし、島根県の斐川は、須佐之男命と八岐大蛇の神話で出てくるので、説得力がある説だ。

道標

大山街道は間違いない

本社には、天照大神と菅原道真も祀られている。天照大神と須佐之男命は関連する神だし、それに特に明治時代に天照大神の信仰を普及とする動きがあったので、いつ合祀されたか驚くほどはないが、菅原道真、天神さん、は、もう少し珍しいだろう。明治45年に北野神社と合祀されたそうだから、明治時代の神社リストラの名残なのようだ。これも、珍しくない現象だ。明治政府が神社神道に大変な損害を与えたとも言えると思わざるを得ない。

境内から表参道で下りたら、古い石段を使う。看板によると、文化13年(1816)に建設され、明治38年(1905)に改修されたそうだから、もう二百年ぐらい努めたようだ。階段を下りると、都会に入って、複数の道路が重なるくらい道に戻る。だが、石段の下には天保13年(1842)の大山街道の道標があるので、歴史の道からまだ離れていないことが分かる。

ビルの道路

表参道で、どっさり都会に再び入る

ゆり子のパソコンの修復

チャート・デイビッドによって2010-02-08に更新された。

昨日、一日中ゆり子のパソコンの修理に努めた。とはいえ、パソコンの修理が終わったのは、また深夜だったが、パソコンの修理が行った内に私が読書した時間は少なくない。ソフトを起動して、待つことは多かったからだ。結局、三ヶ月前の状態に戻ってしまったが、今朝ゆり子のカメラからの写真を読み込んで、バックアップしたので、また問題があったら、より簡単に修復できる。これからゆり子が定期的にバックアップするように戒めないと行けない。外付きハードディスクを付けるだけで済ませるが、それを思い出すのは大変なのようだ。だから自動的な設定にしたほうがいいだろう。

今日こそ早寝するつもりだ。早朝にそう考えるのはちょっと変だろうが、来週頑張るために必要だと思う。では、今日真由喜との遊びは多い見込みだから、寝る前に楽しもう。

ゆり子のパソコン

チャート・デイビッドによって2010-02-07に更新された。

昨日ゆり子のパソコンのハードディスクには問題が発生してしまった。パソコンを起動さえできないので、データを救い出すのはより困難だ。深夜まで挑んだが、できなかった。今日、また挑戦する。今ちょっといい状況になったので、データが或る程度読み取れるかなと思って、準備をする。できなかったら、バックアップに依るしかない。問題は、ゆり子が最近バックアップしたのは、3ヶ月前なのようだ。真由喜の写真などは、カメラにもあるし、私のパソコンにもあるので、その貴重な物を喪失しないが、ゆり子の他のデータが失われる可能性が高くなってきた。

これから、ゆり子がちゃんとバックアップするように促す。それが効かないなら、アップルのタイムカップセルという製品を買って、自動的なバックアップ環境を構える。

勉強と研究

チャート・デイビッドによって2010-02-06に更新された。

英語で”study”と”research”という言葉の意味が異なる。日本語の相当する「勉強」と「研究」が同じように異なるかどうか分からないが、今日私の使い分けを説明したいと思う。

勉強と言うのは、既に知られたことを学ぶことだ。要するに自分の教養に貢献するが、世界中の知識や知恵には役に立たない。勉強するのは重要な行動だが、なんと言っても準備だ。準備だとは言え、知識を得るために勉強してもいいと思う。それは、自分の知識を広げて深める目的だけで勉強することだ。知識はいいことだし、目的に相応しい本質を持つので、そうしても間違いなない行動だと強調したい。だが、勉強だけで利益が自分以外に及ばないので、まだちょっと不満な点が残る。確かに勉強したことを他の人に教えることはできるが、ただの循環なのような感じなのではないか。

だから、勉強の成果を活かすのは基本だ。活かすつもりはない勉強は、ただの趣味に過ぎない。いい趣味だと言いたいが、趣味は趣味だ。

それに引き換えて、研究未知なことを発掘したり明確にしたりする行動だ。だれも知らなかった事実を発見する努めだ。深い意味を持つ事実ではなくてもいいと思う。例えば、日本人の何割が北川景子さんの名前を知ることを見出すことも研究だ。歴史に影響を与えない成果になるが、歴史に影響を与えるのは優秀な研究の証で、いつも発生するわけはない。

研究の成果は、基本的に発表すべきことだが、発表したら、もう趣味を超越した。人間の知識を広げたので、もう文明に貢献できたと私が思う。勿論、貢献の程度は研究の内容によって異なるが、小さな貢献も貢献だから、否定すべきではない。

ある分野で研究できるようになるために、かなりの勉強は必要だ。既に知られた知識はなかったら、新しい知識を発見するのは大変難しくて、運だけになってしまう。だが、普段の場合、勉強から研究まで辿るのは自然な進行なのではないか。先ず本などを調べて、既知のことを修めて、分からない点を明かしたくなる。だが、本には答えは見つからないなら、仕方なく自分で研究し始める。わざと勉強から研究に移る場合もあるのはいうまでもない。

私の場合、博士課程で哲学の勉強から研究に移ったが、今はまた勉強に戻ってしまった。神道のことで、今まで勉強してきたが、もうすぐ研究の段階に進みたいと思う。いつも進行したいのだ。

多忙の日

チャート・デイビッドによって2010-02-05に更新された。

今日は仕事で大変忙しい。レッスンが六時間に登るし、それに午前中例外の出張レッスンがあったので、交通の時間を合わせたら九時間になる。それに他の仕事をする必要はまだあるので、ブログを書く余裕はこのぐらいに限る。申し訳ございません。

節分

チャート・デイビッドによって2010-02-04に更新された。

昨日は節分だったね。今年初めて真由喜が節分は何か分かったので、豆まきができた。だが、鬼の面はまだ怖いようだ。保育園で、年長さんが鬼の面を冠って真由喜の保育室に走り込んだそうだが、真由喜が泣いてしまったという。保育士もそういったが、真由喜も言った。「おめめはここで、口はこう。泣いちゃった。」と何回も言ったので、印象的だったようだ。実は、仮面に怖がることは多い。獅子舞の仮面も、鬼の仮面も、キャラクターの仮面も真由喜には怖いようだ。白幡さんの禰宜舞の仮面は別に怖くなかったと思うが、今年真由喜が怖がるのかな。

だから、私が鬼の仮面をちゃんと付けずに豆まきをやらせた。真由喜がちょっと怖がって豆を投げたら、泣く前に仮面を外した。ゆり子がちょっと付けすぎたので、真由喜が泣いてしまった。本当の顔が見えない状況に不安を持ったのだろう。ゆり子であったことが分かったようだから、本当の恐怖ではなかったといえるかもしれない。

といっても、日本の伝統をちゃんと活かせたので、嬉しい。来年より賑やかにできると思う。

真由喜は特殊パスポート

チャート・デイビッドによって2010-02-03に更新された。

月曜日に真由喜と一緒に二人でお出かけした。湯島天神にお参りして、今年のお札を受けたが、途中でも湯島天神でも真由喜を「可愛い」と言ってくれた人は少なくない。湯島天神で写真を撮りたがった人もいたし。親として嬉しいことだよね。

そして、湯島天神には梅の庭があるが、ちょっと工事中だった。今週末に始まる梅祭りの前に整理する工事だったのだろうが、池などの周りの散歩道は立ち入り禁止だった。真由喜がその周辺で遊んでいたうちに作業員が来て、真由喜を「可愛い」と言ってくれた。そして、作業中のところに案内してくれた。池や小さい滝があるが、その中にある石は自然石で縁起の良い形をする。滝には、鯉の形の岩がある。目も口も尻尾もあるので、本当に鯉に似ている。鯉が滝を飛び上がるのは、勝利に繋がるイメージだそうだから、湯島天神に相応しいだろう。そして、池の中に掌の形をする岩があって、それは観音様のてだと言われた。最後に、亀に見える岩がある。亀も長寿の象徴だから、この縁起のいい。

湯島天神で結婚式を執り行ったが、初めて岩のことが分かったと思う。(前に学んだら、もうすっかり忘れたことになるので、学んだことはなかったと思いたい。)教えてもらったので、真由喜のお陰だ。

ところで、作業員に話しかけられたときに、「イングランド?」と訊かれたが、「はい。なんで分かりましたか?」と答えたら、「イングランドフェース」と言ってから、「あっ、日本語もできますか」とびっくりして言った。質問を日本語で訊いたことに最初に気づかなかったようだ。私も、同じ経験がある。何かを聞いてから、「何語だったのだろう」と頭の中で自分に尋ねることもある。

真由喜が絵馬を見る

本当に読んでいるのかな