和ものびと

昨日、真由喜と一緒に和ものびとが主催したイベントに参加させていただいた。とても楽しかった。和ものびとという組織は、日本の伝統芸能を継承する人たちの発信を支えるサイトだが、発起人の藤間翔央{しょうおう}さんは真由喜の日本舞踊の先生の娘さんだ。だから、その縁で知った。昨日のイベントは、歌舞伎で使われる和楽器の紹介だった。

ちょっと早めに着いたら、正式に開始する前に体験できた。真由喜は小鼓から体験を始めて、大鼓や太鼓、篠笛などとも挑戦した。やはり、篠笛は難しいが、鼓は大変気に入ったようだ。そして、レクチャーのような場があった。福原鶴十郎という方が説明して、他の方も演奏したし、翔央氏も音楽に合わせて踊りを見せた。内容はとても面白かったし、体験する機会もあった。真由喜はまた鼓の体験ができたが、やはり皆の前にちょっと恥ずかしがっていた。例えば、鼓はバラバラにして運ぶことは紹介してもらって、その組み立てと調整のやり方も見せてもらった。そして、歌舞伎で物音を出す工夫も紹介された。ウグイスの音を出す笛や泣いている赤ちゃんの「赤子」という楽器も紹介された。

最初は、真由喜はすぐにでて、ゲームをしに行きたがっていたが、終わったら、さらに体験する機会があった交流会に参加することにして、さらに鼓に触れたりした。

主な対象は大人だったと思うので、心游舎の概念とちょっと違うが、他の子供もいたし、真由喜のように楽しんだようだ。次回のイベントの参加も検討するつもりだが、他の方もご興味を持っていれば、ぜひ。

本物の個人主義

個人主義を強く批判する人は少なくない。日本では、特に保守派で目立つかもしれないが、右翼にも左翼にもよく見られる。自分の利益しか考えずに、社会全体を考えるべきだ、と。

ただし、不思議なことに、「社会全体の利益」はいつもその主張する人の思想にそう。「社会全体の利益を考えるべきだが、私はその利益について間違っているので、私が悪質と思うことをすべきである。」と強調する人はもちろんいないが、「社会全体の利益に貢献すべきだが、私の社会全体の利益には誤解がある可能性は決して排除できないので、もしかして私が否定的に思う行動をするべきだろう。とりあえず、私はこのような提案を掲げる。」と言う人も少ない。

この傾向は当然だと思う。人間は、自分の信念を正しく思う傾向は極めて強いし、私も例外ではない。だって、自分の考えることは、正しいと思うからこそ考えるだもの。間違っていると思ってきたら、もう信念としないはずだ。そして、自分の信念を他人に伝えようとすることも当然な行為だと思う。このブログは、ある意味その目的で書いているし。

それでも、そのような行為は個人主義の本質なのではないだろうか。つまり、自分の理念を他人に押し付けようとする行為は、自分の主張を他人より高く評価することである。当然であるとしても、それでも個人主義であることには変わりはない。

「社会全体の利益を考えなさい!」というのは個人主義であれば、個人主義ではない行為は一体何なのだろう。重要な一部は「和」だと思う。つまり、周りの人に迷惑をかけないことで、和むことである。その周りの人は、自分の考えに基づいて行動するが、その人も和を保てば、社会全体を考えているとは否めない。

もちろん、今述べたことは、他人に対して私の個人的な思いを押し付けようとすることでもある。このような個人主義を避けるのは容易ではないのは先に認めたが、本当にそのとおりだ。では、どうすれば良いのだろう。自分の個人主義を認めたら、異論する人は根本的に自分と違う立場にいないことも認めるのではないか。つまり、誰でも自分の理念を強調しているにすぎない。それで、自分の理念の勝利を得るために、強いることはできないことを認めなければならないだろう。自分は正しいとしても、それを押し付けるのは個人主義である。もちろん、個人主義を容認して、そのように行動することも主張できるが、その場合個人主義を肯定的に受け入れなければならないので、相手も個人主義を主張して自分の道を選んでも不思議ではない。個人主義を否定的に考えれば、自分の理念を魅力的に見せるしかないだろう。そして、魅力を感じない人もいるかもしれないので、それも覚悟すべきなのではないだろうか。

そうしないと、自分の理念を絶対的に優先して、一般的な規則から逸脱しても良いと思いがちである。正義を貫くために、些細な規則を破っても良いという認識だ。個人主義を批判する人の間に、そのような行動は少なくない。社会を自分の理念にそう程度まで認めれば、その結果は当然であろう。

個人主義は日本の伝統ではないという主張のは正しいと思ってきたが、日本の保守派が讃えることも個人主義であると感じることは多い。本当に保守派といったら良いのだろうか。

祓え論:その2

祓え論の後半が遅くなったが、いよいよ書く余裕を見つけた。前回、祓えで思わずに乱したものやどうしても片付けられない状態に対して祓えを行うと良いと述べたが、今回別な状態を論じたいと思う。

それは、意図的に起こした穢れの祓えだ。ここで、二つの重要な場合があると思う。

まずは、本人の感覚から発生する場合だ。それは、あることは適切な位置にないが、今ある位置にあるべきであると思う状態だ。些細な例を考えよう。うちにチビ子がいつとしよう。その子は、自分のおもちゃを遊び部屋に散らかしている。その状態を見れば、「片付けたいな」と思う人は少なくないだろう。しかし、子供のおもちゃに勝手に手を出せば、子供に傷をつけたり、自立心の芽生えの妨げになることもある。その散らかした状態が他の人の迷惑になっていなければ、片付けない方が良いだろう。それでも、落ち着けない。散らかしているので、なんとかしたい。その場合、祓えはよかろう。お祓えすれば、穢れの側面がなくなるが、物理的に片付ける必要はない。儀式の効果を実感すれば、落ち着くだろう。

この概念は、ある人の基準や理想は完璧に合致しないことを前提とする。確かに完璧な理論を持つ人も存在するが、少数派だろう。理想と基準の矛盾が露わになったら、気持ちが乱れる。その場合、祓えでその矛盾を認めるし、全ての理想や基準の重要性を認めるので、自分にとって重要なことに目を潰す必要はない。一方、全体的に見てどうすれば良いかと決めて、その判断に従える。これも心残りであると言えるが、この場合片付けることはできる。ただし、そうすれば別な意味でよくない状態だ発生すると判断したので、片付けないことに意図的にした。

もう一つの場合は、個人的ではない。今までの穢れと祓えの概念は個人的であったが、神道の見方は個人主義ではない。共同体を重要とする。それを穢れの概念に当てはめれば、共同体が設定する適切な位置からはみ出るものは穢れとなる。社会の秩序から乱れる人の行為は、穢れの原因となるのだ。

しかし、場合によって、ある人は社会の秩序に賛成できない。自分の良心で社会の秩序に従えば悪徳な行為になると判断する。その場合、社会の秩序に違反するしかない。社会が悪いことを強いようとすれば、反発するのは適切だ。それでも、その行為を穢れとして認めるべきだろう。特に、その社会を妥当な社会として認めれば、その破壊が設定する秩序も認めるべきなのではないか。確かにナチスドイツのような社会であれば、社会の妥当性を認めず、社会の秩序を壊しても穢れも認めない場合もあるが、その場合はそれほど多くない。普通に、社会は概ね妥当であると思うが、ある点で間違っていると判断する。その場合、社会を認めるので、穢れも認めるべきだ。

このような場合、お祓えで個人と社会の和解を図ることはできる。祓えで、個人の穢れがなくなるが、行為を変える必要はない。個人が祓えの必要性を認める行為で、社会の妥当性を認める。一方、社会が祓えで解決する判断で、個人の異議も認める。つまり、和を重視する仕組みだ。

もちろん、他の人に損害を与える行為はそう簡単に対応できるわけではないが、穢れと法律が完全に重なり合うとは思われない。しかし、宗教的な儀式としての祓えの位置付けとして、話と寛容を大事にする概念になると思うので、これに基づいて考え続けたいと思っている。