『神社と政治』

この本は、公共哲学者である小林正弥先生が著した書物で、初詣の神社で改憲署名運動が行われたことから発端した計画だそうだ。私は、英語の神道についてのエッセイで靖国神社について書くことになったので、その背景を調べるために買って読んだ。

とても興味深かった。基本的な立場は公と私の間の「公共」を主張することであるといえよう。この公共は、一般に提供されているが、国家などと深く関わる「公」にならない。結論から言えば、神社神道の理想的な像は、この公共なのではないかという提案である。

この中で、私が前から考えたことに合致するところは少なくなかったので、それをさらに体系的にされたり、深めたりする本の内容は刺激的で、考えさせられた。

伊勢の神宮の式年遷宮を例として考えよう。この神事はもう公ではない。戦後以来、国家からの支援は一切ない。それでも、550億円規模で行われた。それは、国民からの浄財を集められたからだ。これは、私的なものではないが、「公」というのも難しいので、「公共」と言えよう。そして、この形で式年遷宮を進めるのは理想的なのではないかともほのめかす。私は、そうだと思う。国家と繋げたら、神宮や神道に反対する人からも税金を徴収するので、許し難い行為になる。一方、現行の制度では、賛同する人からの浄財だから、反対する根拠がなくなるし、宗教の自由が保護される限り、政治がいかに変わっても、神宮の存続は保障されている。一方、このように国民から支持を受けられなかったら、生き残ることはできるはずはない。幅広い住民層から支持を得るのは公共性の一つの側面だとすれば、もう一つは開放性である。誰でも神宮に入って、祈ることができる。むしろ、正式に祈らなくても良い。これも公共性の重要な一部であろう。

普通の神社の危機を考えて、小林先生が提案した。それは、神社本庁が広く募金して、その浄財を使って祭祀の維持に努めることだった。これも、私はいいと思う。実は、もはやこれに使える制度が存在する。それは、神社本庁の協賛員の制度である。この制度で、毎年で神社本庁に寄付するが、そのお金は「神社本庁の目的に使う」ということだ。それをより具体的にして、「奉仕する神職などはいない神社の祭祀を行うために使う」としたら、浄財を広く集められるのではないか。有名な神社ではなく、無名な地方の神社の存続に大きく貢献できるとも思われる。

そして、小林先生が指摘したので、神社の公共性を強調したかったら、それは具体的に何であるかも理解しなければならない。宗教的な基盤に基づいて、社会との関わりを展開すべきであるが、その基盤は何だろうと問いかける。確かに神社神道の宗教的な基盤は曖昧で、明らかにされていない。そのため、ただの政治的なナショナリズムに陥る虞がある。私も同感する。神社神道の独特な性質を見せるために、まずその性質をか投げなければならない。祭祀や神事の継続はもちろんその一部であるが、それだけで十分だろう。

これから、さらに神社神道のあるべき姿について考えていきたいと思っている。一方、この本は、全てに神職に読んでほしい。神社神道の将来のためのヒントが多く含まれている。

『神宮雅楽の伝統』

この本は、「伊勢神宮崇敬会叢書」というシリーズの一冊だから、市販されていない。毎年、神宮の文化と歴史についての一冊が刊行され、崇敬会の会員に頒布される。私にとって、興味深い内容は多いが、今回の本は例外ではない。

神宮雅楽の伝統は驚くほど短い。明治維新の後で、雅楽は政府によって神宮に導入させられた。最初のところ、神宮では演奏できる人はいなかったそうだから、宮内省からの雅楽の伶人は派遣されたというが、明治30年代までに神宮の神職も雅楽ができるようになったので、独立したようだ。一般の神社はさらに遅れた。実は、雅楽が一般の神社に定着したのは、もしかして戦後のことだろう。昭和10年まで、東京でもその知識や技能は不十分だったようだし、大正5年では、雅楽師が東京の日枝神社での演奏を腐った鯛に例えたそうだ。それでも、現在なら雅楽は神社の音楽である印象は強いといえよう。そして、雅楽には長い歴史があると周知されているので、神社での伝統も長いと思うのは当然だが、そうではない。巫女の祭祀舞は40年代に創作されたものは基本で、つい最近創作されたものもある。

これを知って、二つの感想がある。

一つは、やはり明治時代には、神社に対する「創作伝統」の色は濃い。西洋の学者の間で神道は明治時代に生まれた説の根拠がわからなくはない。もちろん、賛同できないが、現在の神社の仕組みや祭祀の要素の多くは、明治から昭和までの間に作られたことは多い。神宮を考えれば、目立つのは歴史的な祭祀の廃止である。占領軍がそれほど神宮や靖国神社の祭祀に関与していたら、神社界から強く批判されるが、やはり明治時代の変換は子供の時代でももう済みだったので、伝統だと感じるだろう。(個人的な意見だが、神宮では古来の祭祀などの復旧は望ましいと思う。)

一方で、雅楽の伝統は意外と短いことから、よくないと言えるわけはない。雅楽は日本の伝統の一つであるので、神社の祭祀に取り入れるのは適切であるというしかない。他の日本の伝統を見れば、能楽や歌舞伎もあるし、三味線や琵琶もあるので、これも導入すれば悪くない。宝塚劇場の伝統は、神社での雅楽の伝統に劣らないほど長いので、その伝統も取りれても良かろう。(確かに西洋を真似したが、そのような作法は今の神社界でも見える。参拝者の服装はそうだ。)そして、神社の伝統を現況に合わせる伝統も強いことは明白だ。雅楽は、神社の祭祀に使うのは適切であるが、他の音楽を使うことも許されることなのではないか。神社の多様性は、この側面でも伝統に裏付けられている。

『神話のおへそ 『古語拾遺』編』

この本は、神社検定の公式テキストの9冊目である。テーマは『古語拾遺』であるのは言うまでもないだろう。『古語拾遺』というのは、9世紀冒頭に斎部広成(いんべのひろなり)という人が著した書物だ。斎部の氏族は古代から祭祀と関わってきた氏族だったし、当時広成はもう80を超えていたので、この書物で忘れかけられた伝承を書き留めて、天皇に献上するつもりだったようだ。神話の内容は主に記紀神話に近いが、相違点もあるし、9世紀の祭祀実態についても学べる。『古語拾遺』自体は長くないが、(この本の40ページを占めるだろう)古代の神話や神道に光を差す重要な書物であると思われる。

この本は3部構成で、第1部は『古語拾遺』の現代語訳と簡単な解説である。第2部は、歴史的な背景を説明したり、『古語拾遺』の受け止め方を紹介したりする。第3部は、より細かい解説になる。第3部に、『古語拾遺』の現代語訳をもう一度載せて、それとともに『古事記』や『日本書紀』、『延喜式』などの古典からの抜粋もある。それで、『古語拾遺』の内容と他の古典の内容を比べることはできる。そして、解釈や背景についてのより細かい説明も載っている。検定試験の場合、第1部は3級用で、第2部と第3部は2級用であるそうだ。これで、試験の勉強がちょっと楽になると思うが、私はもう合格したので再度受験するつもりはない。

この本は、高く評価する。まず、『古語拾遺』自体を読む機会は記紀神話ほどないと思うので、入手しやすい本で現代語訳と解説が出たのはありがたいのだ。私も、前から『古語拾遺』を読むべきだと思ってきたので、この機会を与えていただいて嬉しかった。その上、現代語訳は分かりやすいし、解説で問題点と他の古典の類似点が丁寧に指摘されている。例えば、広成の主張は他の史料でも見えるかどうか、そして広成の時代の後でどうなったかについての紹介がある。特に参考になるのは、『日本書紀』の一書の引用や『延喜式』の祝詞などだろう。このような本を読もうとする人は、『古事記』の神話を知っていることは多いと思うが、『日本書紀』の一書の言い伝えは、『古事記』に似てる場合もあるので、『古語拾遺』がどの系統を汲んだかはわかるために、参考文献は必要となる。実は、前書きで『古語拾遺』が日本の神話の入門に適切であると作者が主張するが、まさしくその通りだと思ってきた。短いし、重要な点をほとんどカバーするので、『古語拾遺』の後で『古事記』を読めば、構造をもう把握しているのでわかりやすくなるのではないかと思える。

神社検定の公式テキストのシリーズは、本当に神道の勉強に大変役に立つ品揃いになっている。将来に、「風土記」や「祝詞」、「宣命」、または『先代旧事本紀』などをテーマとする本の出版を期待している。

日本神話や神道に興味を持っている方なら、この本のご一読を強く勧める。

『「鎮守の森」が世界を救う』

この本の内容は、タイトルから分からないだろう。実は、平成26年6月に伊勢市の神宮会館で開催された会議の記録のような一冊である。この会議は、神社本庁が主催したが、宗教的環境保全同盟の国際会議だった。神社関係者はもちろん、国連開発計画総裁特別顧問や高野山真言宗管長も、彬子女王殿下も講演したり、パネルディスカッションに参加したりした。この本の内容は、その発言の編集された記録である。

彬子女王殿下のご講演の内容をお読みいたしたら、面白くて、やはり本もお読みしたいと思ってきた。オックスフォード大学でお勉強になられたそうだから、イギリスについてのご印象をお読みさせていただきたいと思う。

そして、高野山真言宗管長の松長氏の講演も興味深かった。これで、石などにも魂があることは、真言宗や天台宗の仏教には重要な教義であるが、大陸の仏教には見えないという。この教義は、神道の影響から発生したと松長氏が述べたが、確かにそのように考えられる。神道と日本仏教の関係は興味深い問題である。理由は複数あるが、一つは1200年間神仏習合で、密接な関係を持って、お互いに影響を分かち合ったことだ。現在の神道は、仏教抜きにわかるはずはないし、日本仏教も神道抜きに分からないだろう。そして、特に欧米の学界では、近世以前の神道を仏教の一種として捉える傾向は強いが、本当にそうだったのかは、疑問を抱く。このような事実は、関係を明かすことに役にたつと思う。

それに、神社関係者が環境問題の立場から神道のことを論じた。自然崇拝で神道の源泉が見えると述べる内容もあるし、神道の自然との共存を称えることを掲げることも多い。神道では、人間の自然の一部で、自然によって生かされると言われるので、自然を支配するわけにはいかない。自然には恵む側面もあるが、患う側面もあるが、それは自然だから、共存しなければならない。

特に考えさせられた点もあったが、それは最後に田中恆清氏、神社本庁の総長の記事の中だった。それで、「地球を救おう」という言葉に違和感を持ったことだ。人間の力は、自然に及ばないと強調した。ある意味で、それはごもっともである。しかし、人間の行動は、地球規模で環境へ影響を及ぼしている。地球の一次生産の半分ぐらいはもう人間によって占められているそうだし、二酸化炭素などの温室効果ガスの排出で平均気温を上昇させている。これで、人間の生活や文明に大きな被害をもたらす恐れがある。しかし、これは、自然災害のように考えたらよかろう。つまり、防災の対策と同じように、気候変動の影響を軽減するための措置を設置するべきだろう。

もう一つは、いつもの「神道には教義や経典はない」という主張だった。そして、教義はないので、教義から発生する論争もないという主張もあった。私もそう思うが、そうであれば例えば夫婦別姓に反対する根拠はあるのかと思わざるを得ない。神道の寛容性を謳うことは多いが、それと齟齬する活動も見える。私にとって、この本に描写された神道は大変魅力的であるので、このような神道の発展に貢献できればと思う。