『祝詞作文法』

この本も、先日紹介した『祝詞作文』と同じように神社新報社が発行した祝詞作文の教科書だ。これを読んだら、祝詞をちゃんと作成する為に日本語の古語を勉強しなければならないと思った。実は、古語の文法などを紹介する部分があるが、この本で明らかに不十分だ。高校で学んだ古語を思い出させて、それで使えるようにする方針だろうが、イギリスの高校で日本語の古語を勉強しないことは言うまでもないだろう。だから、私にはまったく役に立たなかった。これから古語の教科書を買って、勉強すると思うが、今余裕はないので表現などを取って祝詞作文と挑戦する。そうすれば、この本が役に立つと思う。例文は多いし、例文の使い道も説明されるので、勉強と一緒に活かしたらよく使うようになるだろう。

と言っても、ちょっと賛成できない点もあった。一つは、「国語を尊重する」という表現だった。普通の意味は、20世紀前半の言葉遣いに従うようだったが、国語は生き物で、今生きている国語を使うべきだと思う。祝詞でわざと千年前の国語に準じるので、古語を使ってもいいが、千年前に使われた語彙に制限する必要もないし、現存する文献のなかで見つかる文法に限るべきではないと私が思う。文法の形式は明らかであれば、現在の状況に合わせるために使ってもいいのではないか。祝詞で古語を使うことに賛成するが、現在の事実を表現できなければ意味はない。平安時代にはパソコンはなかったので、パソコンについての祝詞は無理だと言ったら、祝詞の死滅の予言にすぎない。確かに「パソコン」という言葉を避けた方がいいが、その代わりに古語風な大和詞を作ってもいいと私が思う。カトリック教会でラテン語を作ると言われるが、それは2000年前からの伝統だから、神道の祝詞にも適応しても差し支えないだろう。

もう一つは、敬語の使い方だった。基本的に明らかだ。御祭神に対して尊敬語を使って、自分について、そして願主について謙譲語を使う。でも、それ以外尊敬する人について尊敬語を使ってもいいのではないか。例えば、他の人の繁栄を祈れば、祝詞で対象の人について尊敬語を使うべきなのではないか。それに、尊敬語の位を、自分の尊敬によって調整すべきだとも思う。そうしないと、嘘の尊敬語になるからだ。嘘の尊敬語が敬意を表さないので、何より避けるべきだ。だから、伊勢の神宮の御祭神の天照大神を一番尊い神様と看做したら、最高の尊敬語を天照大神に限るべきだが、そう思わない場合、そうしない方が相応しいのではないだろうか。尊敬度は客観的ではない。

問題は、尊敬する人の代わりに祝詞を奏上する場合だ。極端の話は、天皇陛下の代わりに奏上する場合だ。その場合、今のところ、願主は天皇陛下であっても、謙譲語を使うべきだと思っている。会社で報道部が記者会見で社長について尊敬語を使わないと同じだ。神様に依頼を申し上げるので、神様の前で謙譲語を使った方が相応しいような気がする。それは、人を神より尊いと思う場合も同じだろう。依頼するか感謝するか場合、依頼主が下の立場にいることを見立てるのは自然だろう。しかし、これは直接に祝詞奏上を依頼される場合に限る。そうではないなら、第三者についての祝詞だから、尊い人であれば、尊敬語を使うべきだと思う。勝手に祝詞を奏上すれば、自分の声だから、敬意を表したほうがいい。代理の場合と根本的に違う。

この本がまた勉強になったので、祝詞の草案をちょっと見直すと思う。

オープン会議

川崎市外国人市民代表者会議のオープン会議が無事に終わった。昨日溝の口で行われたが、幸い昨日の天気はよかったので参加者は多かった。それに、恒例の学生や常連の参加者に加えて、前に見た事はない外国人も参加してくれた。最近、川崎市に住む外国人が代表者会議の存在さえ知らないことが気になったので、事務局が全ての外国人に次期の募集の知らせを送って、オープン会議のことも知らせたが、効果があったようだ。

今年のオープン会議を二部に分けて、最初にパネルだった。三人のパネリストは、大学と先生と第一期と第二期の経験者と第六期と第七期の経験者だった。川崎市の政策や代表者会議の後での活躍などについての興味深い話を聞かせてもらった。最後に質問があったが、一つの質問は日本人市民の団体から、どうやって外国人市民に役立つ行動が分かるかという質問だった。会議で情報問題がいつも浮上するが、やはり逆な方向からも同じ問題がある。次期また参加できれば、情報問題をじっくり審議したいと思う。

後半で提言で組み入れるテーマについてのご意見を聞かせてもらった。社会生活部会の方で、実態調査に賛成する人ばかりだった。頻度の調整ややり方や対象層などについてのご意見があったが、提言に繁栄する可能性は高い。確かに日本人、特に帰化した人を対象とすればいいと私も思うので、提言案の修正のとき考える。年金のことで、協定の締結を進めたらいいのではないかというご意見もあったし、分かりやすい制度の説明を公表するのは、市レベルでできることだとの指摘もあったので、これも参考になると思う。やはり、テーマを提言のテーマに絞ることは効果的だった。いただいたご意見が活かせるためだ。

会議の後で交流パーティーがあったが、それも楽しかった。実は、会議中真由喜を保育に入れたが、大変楽しんだようだ。パーティーになったら、他の代表者の子供と走り回ったりはしゃいだりしたのげ、楽しそうだった。これからも保育を使うかと思うが、普通の会議の会場まで連れて行くことはちょっとめんどくさい。でも、真由喜のいい経験になれば、私は頑張るしかないね。

クリスマスツリー

ゆり子と真由喜が一緒にクリスマスツリーを飾る昨日家のクリスマスツリーを飾った。11月後半になる前にクリスマスの飾りをしないのは、私の子供の頃からチャート家の原則だったので、日本でも活かす。土曜日は私の仕事の日だから、今日飾るつもりだったが、昨日の荒天のために真由喜が午後に出かけられなかったので、一日前倒しした。私がちょっと仕事をさぼって、ツリーの飾りを手伝ったり写真を撮ったりした。

ツリーを今年新しく買った。生のツリーはちょっと難しいので、人工だが、ちょっと予算を使っていいものを買ったので、安っぽくないし、十年以上使い続けそうだ。そして、見た目はいいし、クリスマスツリーのイメージを満たす。選んだ大きさも部屋に似合うし、ツリーの下にプレゼントを並べることもできる。満足だ。

飾りは勿論家族でした。私がツリー自体を組み立てて、ライトを置いた。そして、真由喜が球などを飾った。真由喜はまだ小さいので、ちょっと下の方に飾り物は多いが、私が真由喜を上げたので上の枝にも物が飾れた。最後に、真由喜が星をツリーのてっぺんに付けた。年末が近づくことを実感するが、仕事の合間にこれでできてよかったと思う。

神社の観光

先週の『神社新報』の論説で、神社で参拝せずに観光する行為に違和感を示した。旨は、神社はただの博物館や史跡だけではなく、生きている宗教施設だから、否、神様の坐す聖域だから、ただの見物で入るのは失礼だから、境内に入ったり、伝統芸能を見たりしたら、参拝も加えるべきだと述べた。

気持ちがよく分かる。神社の境内で見物する前に、必ずお参りするので、忘れてはならない事である立場に同感を持つ。しかし、結局同意できない。

先ずは、無礼な行為と単なる観光を区別すべきだ。境内で適切な行動を守るべきだと強調しても間違いではない。確かに、神道の多様性のなかで、「適切な行動」を定義することはかなり難しいし、神社によって異なると思えるが、原則として問題はない。しかし、拝礼することが丁寧な行動を遥かに超える。

神社神道で、誰でも神様を拝んでもいい。他の宗教を持っても、差し支えない。神様に対して特定された行動に従って捧げたら、充分だとされる。一方、他の宗教や無宗教にはより厳しい制限がある。キリスト教徒やイスラム教徒であれば、多くの場合神社で拝礼したら、一番深い罪になる。珍しくない場合、殺人より酷い罪と看做される。他の神様を認めない事は、十戒の冒頭に立つ。だから、拝礼を条件とすることは、鳥居で止めて、自分の掲げる倫理を覆さない限り入らせない事と等しい。これが神道の寛容の精神を尊重しないので、これほど拘らないほうがいいと私が思わざるを得ない。

本殿から尊敬すべき人が行動を見ていると見立てて行動するように戒めてもいいだろう。子供が遊んでも、本当に尊敬すべき人が怒らないが、そのような人の前に喧嘩するのは恥ずかしい。より詳しく言いたかったら、神様の生活をちょっと明かしてもいい。縁結びの神様なら、カップルで歩く事を優しく見てくださるだろうし、商売繁栄に関わる神様がやり取りなどを認めてくださるだろう。それぐらい無礼しないことに賛成してもらったら、境内に入らせて、観光させてもいいと私が思う。