退位後の天皇の称号の英訳(案)

先日、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」が最終報告を提出したが、『神社新報』に掲載された。その中で、下記の通りの記述がある。

なお、国際的にも、「上皇」の概念が正しく理解されるよう、適切な英訳が定められることが望ましい。

適切な英訳は私の仕事だから、ここで案を掲げたいと思う。

「上皇」を選んだ理由として、歴史的に使われてきたが、その称号の中に「天皇」という文言が含まれていないことが指摘されている。それは、「太上天皇」の称号を避けた理由ともなっている。つまり、「天皇」の文言が入れれば、退位後の天皇と新天皇の間に、省庁や権威の二重性が発生する恐れがあるが、その状態はできる限り避けたいと言っている。

このような事実を踏まえて、英訳を考えよう。まずは、「天皇」を避ければ、「Emperor」を英訳から外した方が良いと思う。「天皇」はお二方はいらっしゃらなくても、「Emperor」はお二方がいらっしゃれば、海外では二重性を感じる恐れがある。

そして、歴史的に貴族や王族に使われたことがある称号やその称号に類似する称号は良かろう。

幸い、候補はある。それは「Grand Prince」である。歴史的に使われたし、「Emperor」の下の位を表すが、単純の「Prince」の上になる。そして、主に王族や皇族の方の称号として使われた。(独立した場合もあったが、珍しかったようだ。)そして、明白だが、「Grand Prince」には「Emperor」という文言が入っていない。

もう一つの利点がある。英語で、父を「father」、祖父を「grandfather]という。つまり、尊属を指す使い方はもう存在しているので、日本の皇室で天皇の親や兄の称号として使ったら、違和感はない。

日本語での敬称は「陛下」のままにする提案だから、英語でも「His Imperial Majesty」のままにしても良かろう。つまり、「His Imperial Majesty, Grand Prince」となる案である。

当報告書では、退位後の皇后の称号として、上皇の配偶者であることを示す「上皇后」という称号が提供されている。上記の英訳の案を踏まえれば、同じ趣旨を取り入れるのは簡単である。「Grand Princess」とする。もちろん、敬称は「Her Imperial Majesty」のままでよかろう。

そして、秋篠宮殿下を皇太子と称せずに、「皇嗣」を付け加えて皇位継承順位第一位であることを示すこととしている。これについても適切な英訳は必要であると指摘しているが、これには問題はない。現行の英訳は「Prince Akishino」であるので、それを「Crown Prince Akishino」にすれば、適切であると思う。「Crown Prince」は一般的に王位継承順位第一位を示す表現ですので、特に「現天皇の子」の意味を含めるわけではない。そして、日本語で「秋篠宮」の称号を維持したいとの趣旨は、この案で英語でも果たせる。敬称は「His Imperial Highness」のままでも良いのである。

この案は唯一の可能性であるわけではないが、個人的に気に入った。自分の案だからね。

してもしなくても、悪

この世で、いい選択肢はない場合は少なくない。特に、ある状態に対して手を出したら問題になるので、出すべきではないが、一方その状態を放置するわけにはいかないので、何もしないとダメだ。例えば、他人の子が悪いことをしたら、叱るとその子の親の子育ての自由を侵すが、何もしないと悪いことを黙認する。その場合、どうすれば良いのか。

良い選択肢はない。何をしても、悪い選択肢を選んだ。

では、戸惑うべきだろう。

ここで、問題提起には問題があることに気づかなければならない。現実では、二つの選択肢しかない場合はまずない。他の選択肢は多くあるはずだ。そして、その選択肢の中、問題なくいいこともあるはずだ。実は、できないほどいい選択肢は多いに違いない。つまり、いいことを怠るしかない。いい行為の中から選ばなければならないので、なぜわざわざ悪いことを選ぶのだろう。

しないと悪いことはいつも多くある。現実に提供されている選択肢から一つのいい行為を選んでやれば、できることはもう尽くしている。

しかし、一番いいことを選ぶべきと反論する人もいるかもしれない。それは、一番いい行為を選ぶ余裕があることを前提とするが、ほとんどの場合そうではない。確かに、すぐに優先順位を見ぬけられる場合、優れる行為を選べば良いが、区別できない選択肢は複数あると思われる。その中から、自由に選んで、まだ意味があるうちにやると良い。してもしなくても悪い行為を最初から排除すべきである。

本物の個人主義

個人主義を強く批判する人は少なくない。日本では、特に保守派で目立つかもしれないが、右翼にも左翼にもよく見られる。自分の利益しか考えずに、社会全体を考えるべきだ、と。

ただし、不思議なことに、「社会全体の利益」はいつもその主張する人の思想にそう。「社会全体の利益を考えるべきだが、私はその利益について間違っているので、私が悪質と思うことをすべきである。」と強調する人はもちろんいないが、「社会全体の利益に貢献すべきだが、私の社会全体の利益には誤解がある可能性は決して排除できないので、もしかして私が否定的に思う行動をするべきだろう。とりあえず、私はこのような提案を掲げる。」と言う人も少ない。

この傾向は当然だと思う。人間は、自分の信念を正しく思う傾向は極めて強いし、私も例外ではない。だって、自分の考えることは、正しいと思うからこそ考えるだもの。間違っていると思ってきたら、もう信念としないはずだ。そして、自分の信念を他人に伝えようとすることも当然な行為だと思う。このブログは、ある意味その目的で書いているし。

それでも、そのような行為は個人主義の本質なのではないだろうか。つまり、自分の理念を他人に押し付けようとする行為は、自分の主張を他人より高く評価することである。当然であるとしても、それでも個人主義であることには変わりはない。

「社会全体の利益を考えなさい!」というのは個人主義であれば、個人主義ではない行為は一体何なのだろう。重要な一部は「和」だと思う。つまり、周りの人に迷惑をかけないことで、和むことである。その周りの人は、自分の考えに基づいて行動するが、その人も和を保てば、社会全体を考えているとは否めない。

もちろん、今述べたことは、他人に対して私の個人的な思いを押し付けようとすることでもある。このような個人主義を避けるのは容易ではないのは先に認めたが、本当にそのとおりだ。では、どうすれば良いのだろう。自分の個人主義を認めたら、異論する人は根本的に自分と違う立場にいないことも認めるのではないか。つまり、誰でも自分の理念を強調しているにすぎない。それで、自分の理念の勝利を得るために、強いることはできないことを認めなければならないだろう。自分は正しいとしても、それを押し付けるのは個人主義である。もちろん、個人主義を容認して、そのように行動することも主張できるが、その場合個人主義を肯定的に受け入れなければならないので、相手も個人主義を主張して自分の道を選んでも不思議ではない。個人主義を否定的に考えれば、自分の理念を魅力的に見せるしかないだろう。そして、魅力を感じない人もいるかもしれないので、それも覚悟すべきなのではないだろうか。

そうしないと、自分の理念を絶対的に優先して、一般的な規則から逸脱しても良いと思いがちである。正義を貫くために、些細な規則を破っても良いという認識だ。個人主義を批判する人の間に、そのような行動は少なくない。社会を自分の理念にそう程度まで認めれば、その結果は当然であろう。

個人主義は日本の伝統ではないという主張のは正しいと思ってきたが、日本の保守派が讃えることも個人主義であると感じることは多い。本当に保守派といったら良いのだろうか。

差別の救済と解消

先日、川崎市人権施策推進協議会多文化共生社会推進施策に関する部会の会議に出席した。今回のテーマは、外国人市民を対象とする入居差別についてのヒアリングだった。川崎市が今年度新しい協議会を立ち上げたが、その協議会でこのような問題を審議して対策を決める予定である。協議会は住居に困る市民一般を対象とするので、例えば高齢者、障害者、ひとり親世帯などが大きな話題になるようだが、外国人市民の問題も取り扱うそうだ。ヒアリングでその対策を担当する部署の担当者と同じ問題と長年取り組んできたNPO法人の理事長の出席をいただいた。

理事長によると、この10数年であからさまになる外国人市民に対する差別が少なくなったそうだ。当初、「外国人お断り」と明言する大家さんや不動産屋さんは少なくなかったそうだが、最近「そのような物件はない」などのような曖昧な表現で断るし、人権や差別に意識を持っている業者の数も増えたそうだ。それは歓迎できる現象である。

そして、市の話からも、理事長の話からも改めて痛感したことは、救済と解消の違いだった。市の制度では「協力業者」の指定があるが、それは外国人などの入居者を歓迎する業者を指す。今のところ、川崎市内の業者の2割を占めるが、市によると拡大することは優先されていない。なぜなら、制度の運営には十分であるからだそうだ。同じように、NPO法人は最近偏見を持つ大家さんと接しないが、その原因の一つはそのようなところを最初から避けるからだそうだ。入居後、長く落ち着いて住み続けるために、嫌悪感を持たない大家さんや業者は重要であるからだ。

救済の立場から考えれば、これは否定できない。今苦しんでいる人を今救済するために、理想的な社会の構築を待つことはできない。今の社会の中で協力してくれる人と協働して、眼前の問題を解決する。それが円滑に進むため、問題を起こす人物との衝突を避けるのは名案だと私も思う。そして、このような政策で、今の問題が解決され、被害者の人生が立ち直る。

一方、問題を解消するために、あるいは減少させるために、問題を起こす人と積極的に取り組まなければならない。思わず問題を起こしている人は、指摘すれば改善してくれることもあるが、積極的に指摘を行わない限り、気づかない。そして、問題を起こしているのがわかるが、改善はめんどくさいのでしない人もいるだろうが、そのような人は、積極的なアプローチと対応することはさらにめんどくさいと感じたら、改善してくれる。積極的に問題を起こそうとする人は、もしかして何もできないが、環境整備と取り組んだら、そのような人が少なくなるだろう。

そして、施策が進めば、もう一般的な啓発をしなくても良い状態になるだろう。差別を行う人は小さな少数派になるので、問題が実際に起こることも少なくなるし、救済が簡単になるので、そのままで市民は誰でも安心して暮らすことはできる。

これから、意識しながら救済と解消の両方を重視したいと思う。