迷惑回避の困難

周りの人に迷惑をかけないように生きることは、さほど簡単ではない。ごく日常的な場合を考えよう。首都圏で仕事へ通勤する場合である。地下鉄などは混んでいる。周りの人に迷惑をかけないことは、歩く道を塞がらないこと、電車の中で傘で刺さないこと、声で不愉快な気持ちを与えないこと。と同時に、自分の電車の乗り換えなども行わなければならない。自分の後ろに立っている人の迷惑にならないように、いつも全体像に気を配らなければならない。これはそもそも難しい。失敗する場合もあるのは決まっている。

この事実に向き合って、頑張る決意を改めるが、他人が失敗する行為に対して寛容にすることも重要だ。迷惑をかけたことは、意図的ではない可能性も高いし、その場で指摘することも迷惑になる。

生活一般と考えれば、さらに難しくなる。極端な例を挙げよう。日本には「大和民族」ではない人がいるべきではないと思う人は、外見から民族が違う人を見たら、気持ちが悪くなる。私を見たら、即座に大和民族ではないことがわかる。明白だ。では、そのような人に迷惑をかけないように、私はどうするべきだろう。非常に少ないと信じたいので、実際に何もしなくても良い。ただ、偶然にそのような人に会わないと願うするだけだ。会わないと、迷惑をかけないからだ。しかし、そのような人が大会を開けば、行くべきではないだろう。行ったら、迷惑になるからだ。そして、そのような人が多くなれば、外見は隠せないので、生活をするしかない。その人も、私に迷惑をかけないようにしてもらうしかない。

しかし、人がそう考えるかどうか、わからない。私の服装は平凡的だが、それに反発する人もいるだろう。この主体的な迷惑を避けるのは極めて難しい。なぜなら、何が迷惑になるかさえわからないからだ。予想できる範囲はある。他人の行動の自由を制限しないようにすることは、一般に迷惑を避ける方法だから、実現しても良い。同じように、軽蔑することは、その対象となる人の迷惑になるので、そのような行動も避けた方が良い。この問題には、礼儀作法がかなり貢献する。共有される礼儀は、迷惑にならない行動を決める。礼儀の通り動けば、ほとんどの人は迷惑を感じない。列を組むことも礼儀の一種だし、挨拶も同じである。この役割を担うために、礼儀作法には二つの要素が必要となる。一つは、簡潔で、すぐに身につけられる内容だ。礼儀作法を学ぶことは大変であれば、あまり利益にはならない。もう一つは、共同体に共有されていることだ。共有されていなければ、迷惑回避に貢献しないからだ。

それでも、迷惑をひたすら回避しようとすれば、問題の放置の恐れがある。前にも触れたが、迷惑にならない解決に向ける道は必要。この問題についてまた考えたいのだ。

構造的な迷惑

アメリカのような共生共存のやり方の大きな利点は、ある種の人には問題があれば、完全に無視することは難しい点である。自分の立場を強調し合うので、自分の感じる不便や差別をすぐに明らかにする。そして、そうすることは、社会的に認められている。もちろん、そのまま受け入れつ問題を解決するとは限らない。現在のアメリカを見れば、それは明白である。しかし、このような問題は感じられている事実は、知らない人はいないだろう。数百万人のデモがその事実を宣伝する。

日本の場合、迷惑をかけないように、自分の問題を他人にはっきり言わないのは原則である。そして、仮に誰かがそう言っても、社会的には不適切な行為であるので、退けることは比較的に簡単である。個人から発生する迷惑の場合、これも大きな問題にならないだろう。問題になる個人を避けたら良いし、それは迷惑をかけない原則にも従う。ただし、その迷惑は社会の構造から発生すれば、状況は大きく違う。

例えば、現行の民法で同性の二人は結婚できない。そのため、夫婦に与えられる利益も得られない。同性愛者にとって、これは大きな迷惑である。夫婦の相互権利は強いし、重要である。しかし、この迷惑は、同性婚に反対する人を如何に避けてもなくならない。法律が改正されるまで、迷惑が残る。法律自体が迷惑をかけている。憲法によって、この迷惑を訴える権利は保護されているが、そのやり方は定められていない。同性愛者はどうすれば良いのだろう。

例を変えれば、方法が見えてくるだろう。川崎市では、川崎市外国人市民代表者会議がある。この会議で、外国人市民は自分の体験する迷惑を挙げて、市長に改善を求めることはできる。この会議は、そうするために市によって設立されたので、会議の提言を提出することは迷惑にならない。2年に1回その提言が出てくることは、市長も行政もわかるので、対応することはただ業務の一環となる。そのため、市側はかなり肯定的に対応してくれる。市の管轄に入る提言であれば、すぐに解決に向けて動き出す。(簡単に解決できない問題も指摘されるので、何でもかんでも即時に解決してもらうわけではない。)

構造的な迷惑を退けるために、このような手続きや制度は必要である。選挙はその一例であるが、選挙で別々で問題に対応することはできない。全体的に国や自治体の状況を考えるしかできない。つまり、迷惑をかけない理想を徹底するために、構造的な迷惑を訴える制度は必要である。それは、法律が作る制度的な迷惑を含むので、裁判での手続きは足りない。立法との連携も必要である。それでは、制度があるとしたら、どのような関与をすべきなのだろうか。それは、次回論じたいと思う。

迷惑

今朝のNHKのラジオニュースで、スポーツ関係のニュースは二つあった。一つは、あるゴルフ場は女性を正社員として認めないことで、国際オリンピック委員会が改善を求めたが、そのゴルフ場の理事の一人がその請求は「迷惑」であると主張した。もう一つは、フィギュアスケート選手の一人が怪我を負って、大会に欠場することにしたが、選手本人が「ご迷惑をかけて申し訳ない」と発表した。

西洋の立場から見れば、首を傾げる。前者は、倫理義務を果たしていないので、その事実を指摘されることは迷惑とは到底言えない。後者は、自分の責任ではないし、出場できない選手こそは困るので、謝る必要性は全く感じない。しかし、日本の感覚で当然に言えることだろう。少なくとも後者のような発言はよく耳にするので、不思議がられていないと思っても良かろう。この現象を手掛かりとして、日本的な寛容や共生の態度を探りたいと思う。

迷惑というのは、他人に不便をかけたり、嫌な気持ちを感じさせたりする行為を指すだろう。電車が遅れると、それは迷惑。近辺で工事を行うと、それも迷惑。人の行動を批判すれば、それも迷惑。この迷惑は、正当性や妥当性とは関係はありません。安全確認のために電車を止めたら、それは正当な理由になるし、むしろ動かしてはいけない。それでも、迷惑をかけているので、アナウンスで謝るには決まっている。

このような概念を高く評価できる。共生共存のため、周りの人の気持ちを損なわないように、そして行動に邪魔にならないように努めるのは効果的だろう。例えば、相手の行動は良くないと思っても、それを指摘しない。その代わりに、自分の行動は正しいと思っても、他の人は嫌ったら、隠す。それは恥ずかしいからではなく、相手に迷惑をかけないためである。些細なことにも効く。人が思わず自分の前に横切りしても、指摘しない。迷惑になる行為について、一般的に喚起するが、特定の人に対してその場で言うことは、対象となる人の迷惑になるので、避ける。これで本音と建前の一部が成立する。相手の行動は嫌であっても、それは示さないので、建前は穏やかだが、本音は不愉快である。自分の方針は、自分の行動が他人の迷惑にならないことを優先することだ。社会的な方針で、他の人も迷惑をかけないように促すが、それは社会の責任である。自分一人ですることではないのだ。

この反面で、自分の行動は、こっそりとすれば他人が関与しないことは期待できる。

この態度は、欧米での、特にアメリカでの行動と大きく違う。アメリカなどで、自分の妥当性をお互いに強調し合うのは求められている。

双方には利点と欠点があると思うが、日本のやり方を勧める立場から数回に亘ってこの問題を論じたいと思う。

「多文化共生社会」と「多様社会」

「多文化共生社会」はよく讃えられている。私も「多文化共生社会推進指針に関する部会」の一員である。しかし、この「多文化共生社会」という表現に対して、違和感を抱くようになってきた。

社会には多文化があれば、私には私の文化、あなたにはあなたの文化、彼女には彼女の文化がある。この多くの文化が共生しても、それでも別々な文化である。この文化が共生する社会は分断されている。この問題は、アメリカでもヨーロッパでも明白になってきた。

国間の共生共存では、多文化は良い。それを認めないと戦争や帝国主義が発生してしまうので、多文化共生国際社会は必要不可欠。しかし、国の間の絆は希薄になるものだ。日常生活で一緒に住む環境ではない。

しかし、同じ国、同じ町に住む人は、毎日接触したりするので一緒に暮らしている気持ちは重要だ。一体感はないと、分断と軋轢が問題になるのではないか。だから、国の中で一つの文化は必要だと思ってきた。

ただし、その一つの文化は均一であってはならない。そして、一つの文化のためによその国から人を招いて、生活させるべきだと思う。社会の多様性は宝物である。多様な社会は豊かな社会で、協力の社会は強力な社会。

「多文化共生」と唱えたら、「私の生き方を変えずに、他人の生き方に無関心のままで良い」と思ってしまうことはある。そして、「他人の行動が私の文化に邪魔をすれば、訴える」との認識も蔓延する。多様社会では、同じ社会、同じ文化であるので、詳しくならないとしても、周りの行動に関心を持たなければならないし、周りの人が自分と異なる生活を送っても、同じ文化であると認める。その上、周りの行動で魅力がある何かを見たら、その何かを直ちに自分の生活に取り入れても良い。自分の文化の一部であるので、すぐにできるはずだし、調整しても差し支えない。この過程で自分の生活も段々豊かになる。生まれてからの習慣も保つのは当然だが、新しい概念や活動を見て、導入すれば、予想さえできなかった楽しみもできる場合は多い。例えば、魚を生で食べる楽しみとか。

このような機会を増やすために、行動を別とする人を近々に暮らさせたり、多様性を増したりすれば良い。お互いの調整や融合で輝く宝石の社会が生まれてくると確信する。

このために移民は必要である。移民はないと、外国からの文化の要素を導入することはできない。天ぷら、肉まん、ピザは外国人と一緒に日本に入ってきたが、全てを排除しようとする保守派の人さえ少ない。一方、一つの文化で暮らすために、移民にはその受け入れる国の文化に融和する義務もあると思う。双方が調和を図らなければならない。

だから、結局のところ、多様社会を促進するための施策と多文化共生社会のための施策は同じである。違和感を抱くのは、呼び方にとどまる。